第12回 運命の恋愛詩
尾形亀之助「恋愛後記」は、たった二行で構成された詩である。
窓を開ければ何があるのであらう
くもりガラスに夕やけが映つてゐる
この作品に出会ったのは、大学三年生のとき。恋愛詩を探していたのではなく、課題として詩を書くことになって、そもそも詩とはなにかをさぐるために、思潮社が刊行している現代詩文庫シリーズを片端から読んでいるときに見つけた。
当時は、友だちと集まれば必ず恋愛の話になる。作家を目指している同じ学部の学生たちが書く作品も、恋愛をテーマにしたものが圧倒的に多かった。書店に行っても、「恋愛」がテーマであることを全面に押し出した作品は多く並んでいる。当時は、恋愛というテーマは、語れども語り尽くせぬ、人にとっては永遠の、壮大なテーマなのだろうと漠然と考えていた。
だからこそ「恋愛」という壮大な言葉をタイトルに付しながら、たった二行でつづったこの詩を初めてみたとき、感動したというより、とても戸惑った。こんなに素っ気ない「恋愛詩」をみたのは、後にも先にもこれだけである。「恋愛」について語るのに、これだけでいいの? と思った。もし「恋愛」という言葉がタイトルについていなければ、この詩が恋愛にまつわるものであることもわからなかったかもしれない。
それからわたしにも色々あって、「恋愛」までいたらずとも、その恋を通り過ぎた後に、尾形亀之助のこの詩が胸に浮かんでくるようになった。詩を愛する人ならば、詩集を取り出さずとも、胸の内にしまわれた詩というものがあると思うが、この詩はわたしにとってそうした詩の一つである。
「恋愛記」ではなく「恋愛後記」。これは恋愛の渦中にあるうたではなく、通り過ぎて、その渦の痕跡を離れた場所からみているうたである。離れているからこそ、その景色がより明瞭にみえてくる。
くもりガラスの向こうから、茜色の光がさしている。窓を開けば、その光の正体も、あたりの景色も見渡すことができるのだが、窓は開かぬまま、窓に映りこんでいるものだけを喜び、やがて日が沈むのを待っている。
くもりガラスは、向こう側を見通さないために嵌める、光と熱だけを通す美しい幕である。見えないままでよかったのかもしれない。でも、もし、真相を見ることを恐れずに窓を開いていたなら、この詩は二行では終わらなかったのかもしれない。「窓を開ければ」といいながらも窓を開けずにいるのは、その温かな光を、あえて誤解したまま、自分自身の手で終わらせようとしているのである。恋を現実にしなければ、美しい幻だけが残り続ける。現実は儚いものだが、幻は永遠の命をもつ。永久の恋になる。日が沈みきって、残像が目から消えた後にも、その美しい光は胸の中にとどまり続ける。
「恋の病」という言葉があるけれど、本当に恋をすると、喉が渇いたように苦しくなるものだ。この苦しみを言い当ててくれるようなうたはないだろうかと、歌番組を見てみたり、詩集の棚を覗いてみたりする。言葉こそが、心にあいた空洞をさすってくれるような気がする。恋の渦中にあるとき、わたしは物語よりもうたを求める。物語で語られる恋はわたしのものにはならないが、うたは、わたしの一部になってくれる感じがある。そもそも、説得や説明を目的とせず、あふれ出る思いを言葉にしたうたという形式が、恋という形に沿うものなのかもしれない。
「詩的な言葉」というと、豪華絢爛な言葉を想像する。しかし亀之助は、まるで日記のように素朴な言葉で詩をつづっている。
石川啄木『食うべき詩』には、次のような箇所がある。
詩はいわゆる詩であってはいけない。人間の感情生活(もっと適当な言葉もあろうと思うが)の変化の厳密なる報告、正直なる日記でなければならぬ。したがって断片的でなければならぬ。——まとまりがあってはならぬ。(まとまりのある詩すなわち文芸上の哲学は、演繹的には小説となり、帰納的には戯曲となる。詩とそれらとの関係は、日々の帳尻と月末もしくは年末決算との関係である。)
詩を書くとき、それを「詩」たらしめようとして、「詩的」だと思う言葉や、日常生活からは逸脱したような言葉を用いようとすることがある。詩は実験的な役割を担うこともあって、日常から逸脱した言葉がかえって日常を崩すという作用もあろうが、「食うべき詩」、日常を生きるわたしたちの主食となるような詩は、日常の言葉からうまれ出るものだ。日常の言葉で詩をつづることは、すなわち日常を肯定することでもある。
恋をすると、詩が読みたくなる。成就して心が満ち足りてしまえば、詩は必要なくなる。恋を失った時、ふたたび詩を求めるようになる。
自分の恋の痛みを満たしてくれるような詩は多いようで、実はあまりないものだ。この世に同じ恋は一つも存在しないように、誰かにとっての恋愛詩が、自分にも薬のような作用を発揮してくれるとは限らない。こんなにたくさんの人がいながら、本当に好きになる人は世界に一人しかいないように。
詩集という本の面白みは、一作品だけでなく、一冊でたくさんの作品とめぐりあえる点である。散歩道で偶然、運命の出会いを果たすように、自分だけの恋愛詩をみつける詩集の散歩も楽しいものだ。

恋愛後記 尾形亀之助
窓を開ければ何があるのであらう
くもりガラスに夕やけが映つてゐる
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1990年埼玉県生まれ。詩人。第五十四回現代詩手帖賞受賞。『狸の匣』(思潮社)で第二十三回中原中也賞、『雨をよぶ灯台』(思潮社)で第二十八回萩原朔太郎賞受賞。

