【連載】僕らは水の中で生きている◎橋本淳司——第6回/凍るはずなのに凍らない水

第6回 凍るはずなのに凍らない水

 水──それは、私たちの毎日にあまりにも自然に存在しているもの。けれど、その正体は〝常識はずれ〟の物理化学的性質をいくつも持つ、不思議な存在だ。

 ここは、とある総合大学。集まっているのは、サステナビリティ研究会(通称サス研)に所属するちょっとクセのある4人の大学生。

・アルバイト三昧の経済学部生・[みなと]
・行動力抜群の国際学部生・千夏[ちなつ]
・アニメオタクの文学部生(中国からの留学生)・陳 詩音[チン・シオン]
・コンピューターが大好きな工学部生・[ゆう]

 彼らの何気ない日常の会話や出来事が、やがて〝水〟の奥深い世界への扉を開いていく。さて、今回の物語では──どんな水の不思議が顔を出すのだろう?

机に落ちたペットボトルの水が凍る⁉

 1月のある朝、レポート締切前の資料を確認するため、湊はいつもより早く部屋を出た。

 アパートの前で少しだけ立ち止まる。自転車で行くか、歩いて行くか……。空気は冷たく、勢いよく自転車をこぎ出す気分にはなれない。けれど、歩けば時間がかかる。

 湊は結局、自転車を選んだ。急ぐため、というより、途中で引き返せる気がしたからだ。坂の上にあるキャンパスへ続くくねくねした道を、ゆっくりと上る。段差を越えるたび、車体が小さく跳ねる。ブレーキをかけるたび、ハンドルがわずかにぶれる。それでも冷たい空気に触れているうちに、頭の奥が少しずつ澄んでくる。

 サス研の部室に着き、湊は息を吐いた。屋内でも息は白い。手袋を外し、ドアを開ける。夜の冷気が部屋に残っていた。

 机の上に荷物を置こうとしたときだ。窓の外に違和感を覚えた。上げ下げ式の窓の外にはスペースがあり、いくつかプランターが置かれている。そこに見慣れないペットボトルがあり、プランターとプランターの間にしっかりと固定されていた。

 誰かが、外に出したまま忘れたのだろうか。昨夜の冷え込みを思い出しながら、湊は窓を開け、ペットボトルをゆっくり手に取った。指先に、ジンとした感覚が伝わってくる。中には8分目くらいまで液体が入っている。

「飲みかけなのか?」

 中身は凍っていない。見た目は、ただの水だ。湊は首をかしげ、窓を閉めた。その拍子に持っていたペットボトルが机の上に滑り落ちた。

――パキパキ

 乾いた、小さな音がした。次の瞬間、水の中に細く白い筋が走る。

「えっ!?」

 白い筋は、一本、また一本と増え、透明だった水が、内側から白く変わっていく。湊は息を止めたまま、その変化を見つめていた。 

水はきっかけを待っていた?  

 机の上のペットボトルは、もうほとんど白くなっていた。それでもよく見ると、中心付近にだけ、透明な部分が残っている。変化が、途中で止まりかけているように見えた。

「……こんな凍り方があるのか?」

 ドアが開く音がして、冷たい空気が流れ込む。振り向くと、千夏が白いダウンジャケットのポケットに手を突っ込んだまま、肩でドアを押して入ってくるところだった。

「おはよう。……なに、それ」

 千夏は湊の視線の先を追い、机の上のペットボトルを見て、足を止めた。

「水がさ、急に凍って。さっきまで液体だったのに」

 湊がそう言うと、千夏は近づいて少しかがんだ。凍りかけの水を黙って眺めてから、顔を上げた。

「えっと……過冷却、だっけ?」
「カレイキャク?」
「動画で見たことがあるのよね」

 千夏は言葉を探すように続ける。

「本当は水が凍る温度なのに、しばらく凍らないままでいる状態、だったと思う。どうやったら凍ったの?」
「机に落としたら、急に」
「それが凍るきっかけだったのかもね」

 足音が近づき、詩音が部屋に入ってきた。スマホを手にしたまま一歩踏み込むなり、視線がまっすぐ机の上へ向かう。

「あ……」

 声は、驚くというより確かめるようだった。詩音はペットボトルを手に取って、窓際の光に透かす。

「……凍ってたか」

 凍り方を確かめるように、ペットボトルを手にしてゆっくり回していたが、2人の視線に気づき、こう言った。

「昨日、外に出しておいたのよ」
「……なんで?」湊が聞く。

 詩音は一瞬だけ間を置いたあと、肩をすくめる。

「ネットでね、ちょっと攻めたデザインの服を見つけちゃって。買おうかどうか迷ってたの」

 千夏が目を丸くする。

「それが水と関係あるの?」
「うん。朝まで外に出しておいて、凍ってたら買う、凍っていなかったら買わないって決めてたの」
「なにそれ、新しい占い?」と千夏。

「僕が最初に見たときは液体の水だったんだけど、机に落としたら凍ってしまってね。占いの結果を変えてしまったのかな?」と湊。

 詩音は小さくうなずく。

「そういうことが起こるかもしれないとは思ってた。凍れる状態でも、水って、しばらく液体のままでいられるでしょう」

 湊は、乾いた音を思い出した。机に触れた一瞬の感触。

「……何かを待っていたみたいだった」

 自分でも、なぜそう思ったのかはわからない。

 詩音は少し考えてから言った。

「水はね、『今じゃない』状態を保てるの。凍れるのに凍らないままで」

 千夏が笑う。

「それで、凍ってたってことは?」

 詩音は小さくうなずいて言った。

「……買う。攻めた服」

 と、スマホで個性的なデザインの服を見せた。

過冷却の実験

 机の上のペットボトルは動きを止めていた。白さは均一で、さっきまで残っていた透明な部分も、もう見分けがつかない。

「……完全に凍ったな」

 湊が言うと、千夏が少し悔しそうに立ち上がった。

「凍る瞬間を見逃した。ねえ、もう一回、やってみない?」

 千夏は棚の奥から未開封のペットボトルを一本取り出す。キャップを開け、少しだけ水をコップに移してまた閉める。

「ペットボトルの水は7分目。凍らしている間、揺らさない。触らない」

 千夏は冷蔵庫内の温度をマイナス5度に設定し、ほかの容器に触れない位置を探した。

「ここなら、動かない」

 ペットボトルは、そっと置かれた。

「このまま5時間……昼過ぎまで放置だね」

 千夏は、冷蔵庫に「実験中。ペットボトルに触れるべからず」と張り紙をした。

「これでよし。さっ、授業に行こうっと」

 部室には再び静けさが戻った。

 午後になって3人はもう一度部室に集まった。冷蔵庫を開けると、ペットボトルは透明なままだった。

「……まだ水だ」

 千夏は息をひそめるようにして、ペットボトルを取り出し机の上に置く。手袋越しでも、冷たさが伝わってくる。

「いくよ」

 千夏の言葉に2人はうなづく。千夏はいっしょに冷やしておいた小皿を机においた。ペットボトルのキャップをはずす。高い位置から少しずつ皿の上に注ぐ。すると、見る見るうちにシャーベット状の氷の山ができていく。

「……凍ってる」

 湊は目を離せなかった。

「こんどは落下がきっかけね」

 詩音が静かに言う。

「凍れる状態で、待っていたところに、刺激が加わった」

 3人はどんどん積み上がっていく氷の山を黙って見ていた。

凍るための準備はできていた

「実はさ」

 詩音は、机の上の皿を見ながら笑った。白く積み上がったシャーベットみたいな氷が、まだ形を保っている。

「同じことやっても、うまくいかない日もあるんだよね。条件をそろえても、何も起きないまま終わることのほうが多い。だから窓の外にペットボトルを置いたときも――」

 少し間を置いてから、続ける。

「起こったらラッキー、くらいに思ってた」
「でも、起きた」千夏が言う。

 詩音は小さくうなずいた。

「うん。起きるところまで、持っていけただけ」
「凍らせようとしたわけじゃなくて……あとは、待っただけかな」

 湊は、皿の上の氷を見た。粒が重なり合って、さっきまで水だったとは思えない形になっている。準備して、そっと置いて、手を出さなかった。それでも、変わるかどうかは、水次第だった。

「人も、ちょっと似てるかも」

 思わず、そんな言葉がこぼれる。

「すぐには決められないけど、決められる状態までは、持っていけるっていうか」

 詩音が、氷から目を離さずに笑った。

「それ、かなり過冷却っぽいね」

 皿の上では、シャーベット状の氷が、静かに積み重なっていた。

 部室を出るころ、キャンパスはすっかり夕方の顔になっていた。授業を終えた学生たちの声が増え、遠くで自転車のベルが鳴る。昼間のざわめきが別のリズムへ変わっていく。

 湊はペットボトルを手に取り、自転車のカゴに入れた。中では、白い氷がまだらに残り、そのあいだを水が満たしている。凍ってはいるが、もう完全な形ではなかった。ペダルを踏むとカゴの中でペットボトルが小さく揺れる。それでも、もう何も起きない。坂を下りながら、湊は息を吸った。昼の名残を含んだ冷たい空気が、胸の奥まで入ってくる。

 さっきまで、あの水は、ただ置かれていただけだった。触れられて、形が変わった。そして今は、少しずつ別の形へ移りつつある。それだけのことなのに、不思議と腑に落ちた。

 キャンパスの門を抜けると、空は少し低く、色を変え始めている。カゴの中で、ペットボトルは静かに収まっていた。氷と水が、互いの境目をゆるめながら。湊は前を向いたまま、ペダルを踏み続けた。ここで止まらずに、もう少し先まで行ってもいい。そう思える状態に、いつのまにかなっていた。

イラスト=ヒットペン

橋本淳司

はしもと・じゅんじ 1967年、群馬県生まれ。学習院大学卒業。アクアスフィア・水研究所代表。武蔵野大学工学部サステナビリティ学科客員教授。水ジャーナリストとして、水と人というテーマで調査、情報発信を行う。Yahoo!ニュース個人「オーサーアワード2019」、東洋経済オンライン2021「ニューウェーブ賞」など受賞。主な著書に『水道民営化で水はどうなるのか』(岩波書店)、『水辺のワンダー~世界を旅して未来を考えた~』(文研出版)、『2040 水の未来予測』(産業編集センター)など。

バックナンバー

バックナンバー一覧へ