【連載】ライター稼業渡世日記 ──出会った人びと 歩いた街々◎岡崎武志 第2回

三十三歳のとき、もの書きを目指し一念発起して上京。 
暴挙、愚挙、無謀だったかもしれませんが、以来、見事に文筆家として暮らしてきた岡崎武志さん。
そのライター稼業とは、どのような歩みだったのか?  
出会った人、歩いた街、関わった雑誌や本を通して、見えてくる時代……。 

そんなん売って歩いてるの?

 各種書類の「職業欄」を書き込むときに、いつも躊躇するのは「ライター」と書くのか「文筆業」とするのか、あるいは「自由業」という手を使うかについてである。「会社員」や「公務員」などに比すと、職分として非常にあいまいである。原稿依頼があったときに「肩書き」を問われることもあり、その際は本の紹介なら「書評家」がもっとも多く、その他の内容なら「ライター」とするケースが多い。 

「ライター」と名乗るのがもっとも多く、書く仕事をすべて包含するので一番ぴったりくる気がしているが、どこか本当の自分ではないような部分もあるので困ってしまうのだ。自分を知らない人たちの前で自己紹介をする際、やはり「ライターをしています」と告げるのは躊躇がある。タクシー運転手、豆腐屋、コンビニ経営、水道事業者などと並ぶと、一般的な生活からかけ離れ、いかにも浮ついている。 

 東京とは出版事情に雲泥の格差がある大阪では特にそうで、ライターを名乗る人に出会ったことはなく、「ライター? 煙草に火をつける? え、そんなん売って歩いてるの」と茶化されるのが落ちである。 
「ヨシモトで売れん芸人やってます」や「甲子園球場で芝の整備を」のほうが大阪ではステイタスが高い。ライターなどお呼びではない。そう言えば、大阪で東京大学卒の人に出会ったこともなかった。 
 ライターという職も、東京も、いかにも遠かった。 

すがった蜘蛛の糸

 そもそもライターを目指して上京してきたわけではない。とにかく本や雑誌に関わる仕事がしたくて、大阪を飛び出してきたのだ。恥ずかしながら私は小中高と劣等生で、成績は悪く、スポーツもてんでダメであった。唯一、教師から褒められたのが文章で、これは小中高とそれぞれ天分を認めてくれた先生がいた。 
 中学二年の担任だったY先生(女教師)からは、「おかざきくん、あんた文章書けるから新聞部に入り」と勧誘もされたのだ。市役所訪問をし、市長に話を聞いて記事を書くこともやったから、これが私の活字デビューか。 

 中学三年の担任・U先生にも早くから目をつけられ、卒業アルバムの編集委員をまかされ、写真のキャプション、それに編集後記を書いた。スポーツの県大会で優勝、といった華々しいことではないが、劣等生の私には「文章を書くこと」がすがる蜘蛛の糸となったのは間違いない。ちょっと調子に乗っていたこともあったかもしれない。 

 しかし、それを将来は自分の職業として、とは微塵も考えなかった。高校時代は漫画を描いたり、ギターでフォークソングを歌い自作曲も作っていたから、夢はそっちにあった。 
 文章を書くことも含め、これら創作活動に身を染めたことは、すべて現在の仕事に役立っている。学業は振るわず、体育の時間は恥ずかしい思いをしていたから、なんとなく自分の手で何かを作り出すことを「おくのほそ道」として選んだ気がする。とにかく本はずっと読んでいた。読書量は学内の誰にも負けないという自信もあった。 

 高二の時の父親死去をはじめ、人生コースが大きく揺らぐことがあるのだが、二浪して立命館大学の二部文学部(夜間部)にもぐりこみ、文学をやるぞとひどく意気込んでいたのが二十代。「文学」という言葉に過剰な思い入れがあって、寒い京都の下宿で梶井基次郎などを読みながら興奮して「ブンガク、ブンガク」などと声に出してもいた。大学の友人たちとコピー刷りの文芸同人誌を作り、小説や詩を書いた。 
 書くことの「おくのほそ道」は続いている。大学卒業後もモラトリアム生活を送り、ここでも同人誌にかかわっている。表現したいという同世代の男女と知り合い、酒を飲みながら話し、雑誌作りの楽しさを知った。今思うと、わりと「おくのほそ道」は一直線である。 

『季刊ぶらけっと』参加

 関西在住時代の履歴は書けば書くほど恥ずかしい話になるのだが、大学卒業後、二年かけて教職課程を取得し、とりあえず国語講師として大阪北摂の高校へ勤め始める。二十六歳になっていた。常勤、非常勤、産休代替、私学、夜間と一通り講師稼業を七年やったが、とうとう採用試験には受からなかった。だが困難校で担任を勤め上げた経験は買われ、途切れなく各校から引きはあった。教師という仕事には魅力を感じ、自分にも合っていると思ったが、試験に受からなければどうしようもない。まったくどうしようもない二十代だったのである。 

 大きな転機となったのが1987年。詩人を中心とする関西の表現者たちが八十名ほど参加する大所帯の『季刊ぶらけっと』が創刊され、そこに参加。のち編集にも携わるようになる。会費と販売を経済的基盤とする同人誌であったが、詩だけではなく、エッセイや評論、小説まで広く掲載する柔軟さが、ややもすると閉鎖的党派的な同人誌の通弊を破り画期的であった。ここで私は「放課後の雑談」という雑多な話題を取り上げるコラムを連載した。 
 主宰者のМさん(翻訳のマネージメント)の事務所が編集部となり、私はそこへ入り浸り、多くの人と知り合い、レイアウトや編集を学び、「書く」快感に満たされていく。毎日が楽しく、新しい地平へ歩みだした感があった。 

 会員のなかに自ら雑誌を作る人が何人かいて、「おかざきくん、次、おれの雑誌にも何か書いて」と頼まれ、他流試合ともいうべき原稿執筆も経験するようになる。『海浪』にディック・フランシス論、『トプカピ宮殿』に小津安二郎『麦秋』論を書き、後者は杉山平一さんの同人誌評でほめられた。 

 体が熱くなるように「書くほう」へ「書くほう」へ押し出されていった。

多くの関西の表現者たちが参加した『季刊ぶらけっと』(1989年5月号)の表紙
同紙目次。岡崎さんは「ぼくたちの手塚治虫」の企画・構成を担当
1987年(昭和62)はどんな年? 

・国鉄民営化、JRに。当初、東日本は「国電」を「E電」と呼んでくれと言っていたが、誰もそう呼ばなかった。 
・北朝鮮の工作員・金賢姫[キム・ヒョンヒ]による大韓航空機爆破事件発生 。

(つづく)

タイトル文字、写真=筆者

岡崎武志

おかざき・たけし 1957年大阪生まれ。立命館大学卒業後、高校の国語教師、出版社勤務を経てフリーライターに。「神保町ライター」の異名を持つ。近著に『憧れの住む東京へ』(本の雑誌社、2023年)、『古本大全』(ちくま文庫、2024年)、『ふくらむ読書』(春陽堂書店、2024年)などがある。

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