【連載】ライター稼業渡世日記 ──出会った人びと 歩いた街々◎岡崎武志 第5回

1990年、三十三歳のとき、もの書きを目指し一念発起して上京。 
暴挙、愚挙、無謀だったかもしれませんが、以来、見事に文筆家として暮らしてきた岡崎武志さん。
そのライター稼業とは、どのような歩みだったのか?  
出会った人、歩いた街、関わった雑誌や本を通して、見えてくる時代……。 

出版社にもぐりこむ

 前々回に書いた詩人たちが集まって作る同人誌『飾粽[かざりちまき]』に、代表の鈴木志郎康さんから誘われて大阪在住時代から参加した。 
 おかざき・たけしが筆名で「まんが現代詩人伝」という四コママンガを連載。いま手元にあるのが1991年2月号。通巻22号とあるから月刊だった。私の連載ナンバーが21だから第2号からの参加となるか。1992年36号で終刊した。 

 この雑誌がすごいのは、鈴木志郎康さんはじめ、清水哲男、清水昶、藤井貞和、阿部岩夫、新井豊美、平田俊子など『現代詩手帖』で特集が組まれるような著名な詩人が集まっていたことだ。詩に関心のない人にはわからないだろうが、現代詩人としてトップクラスの人たちだった。それが身銭を切って、ワープロで原稿を打ち込み編集校正して書店に持ち込むまでをやっていたのである。月に一度、東京・西荻窪に住む同人の加藤温子さん邸で編集会議と作業が行われていた。上京してからは私もそこへ参加した。 
 私は本読みとしては珍しく現代詩の愛読者だったから、そこにいならぶ著名な面々を前に大いに委縮していた。ほとんど借りてきた猫状態であった。 
 それでも愛読する詩人たちの集まりであり、東京の居場所として、月一度、埼玉県戸田市からスクーターで東京女子大にほど近い加藤邸へはせ参じていた。のち、西荻窪の古本屋さんたちと仲良くなり、中央線でももっともひんぱんに訪れる町になるのだが、それはもう少しあとの話。 

『飾粽』の同人は超一流の詩人たちだった

新宿地下道のホームレスたち 

 いよいよ、小さな出版社へ就職した話をせねばならない。 
 4月、5月と東京で遊びまくり、そろそろ本気で何とかしないと、のたれ死ぬしかない窮地に陥っていた。 
 新宿駅に東西を結ぶ暗い地下道があったが(今もあるか)、1990年ごろ、そこは多くのホームレスが傷ついた獣のように巣食っていた。自分もこのまま進展がなければ、来月はあの仲間入りだとおびえるように見ていたことを思い出す。持ち金は底をつき、実際、そうなっていたかもしれない。世はバブル景気で浮かれていたが、その恩恵など微塵もなく、まわりがみな高速度で回転しているのに、自分一人はスローモーションで動いているという日々であった。 
 それでも、大阪へ白旗揚げて帰る気持ちはない。東京でのたれ死に……上等やんか、と覚悟した。

 東京ですぐに親しんだ町が高田馬場から早稲田のあたり。もちろん古本屋が並んでいるからだった。古本屋で本棚を見つめ、本に触っているときだけは、自分がここにあるという実感があった。高田馬場駅前の商業ビル「ビッグボックス」では、年に何度か定期的に古本市が開かれていた。これは楽しみだった。文芸書中心だったし、神保町などに比べると値付けも安かった。 
 6月に入ったころ、古本市を見たあと、中二階のような場所の新刊書店売り場へ寄った。転機はここに落ちていた。雑誌売り場で何か仕事に結びつく手掛かりがないかと探していると、『十人十色』という月刊雑誌を見つけ手に取った。まだ創刊されてまもないらしく、通巻の3号か4号あたりだったと思う。 

 表紙に「いまひとが一番面白い ひと・データ・マガジン」と銘打たれている。発行はメディアハウス。知らない出版社だ。ただ、この「ひと」こそが情報の中心だというコンセプトを面白いと思った。奥付ページを見ると「編集者募集」とある。条件は問わず委細面談、やる気のある人を求むというような文面に電流が走った。『朝日新聞』の出版業界の求人広告では、年齢と経験という壁に立ちふさがれていたから、ほとんど初めて自分に挑戦権が与えられた情報だった。そこに光を見出した。 これでリングに上がれる。

雑誌『十人十色』。表紙の説明によるとLA在住のクラウトという画家が描いたマリリン・モンローとのこと。ぜいたくすぎる表紙。1冊150円!

曙橋へ

 さっそく電話連絡をし、面接の日時を決めてもらい編集部へ出かけていった。私は大学を卒業してからもモラトリアムのアルバイト生活を続けていたので、正式な就職活動はこれが初めてであった。履歴書を書き、スーツは持っていなかったので、たぶんネクタイにジャケットという格好で、マンションの一室にある編集部を訪問したのではなかったか。 

 住所は新宿区片町6-7。最寄り駅は地下鉄の都営新宿線「曙橋」だ。もちろん知らない駅。私が住む戸田市からは埼京線で新宿駅(当時、ここが終点)、そこで少し離れた都営新宿線に乗り込むというアクセスだ。このコースを毎日、通うようになる。地上へ出ると、片町は北が市ヶ谷、南が四谷という台地の底にある小さな三角州のような町だった。こういうダイナミックな地形は京都にも大阪にもない。東京は台地と坂で作られた都市だった。目指すメディアハウスは、交差点角に立つマンションの一室に入っていた。 
 すぐ後ろには防衛省(当時は防衛庁)の広大な施設。そこは1970年に三島由紀夫が演説したのち、割腹自殺したあの歴史的な場所だったとはあとで知る。1990年には、まだすぐ近くにフジテレビがあった。合羽坂を下りたところに、やなせたかしの仕事場、市ヶ谷は詩の書肆・思潮社の住所としても記憶していた。 
 とにかくこの地で新しいスタートを切ることになる。 

メディアハウスが入っていたマンション 
『笑っていいとも!』は河田町から西へ2キロ足らずのスタジオアルタ(新宿駅東口)から生放送された
1990年(平成2)の出来事 

岡崎さんが窮地に陥っていた1990(平成2)6月にあったこと

・礼宮文仁親王が川嶋紀子さんと結婚、秋篠宮家を創設(6月29日) 

岡崎さんが上京、その後すぐ窮地に陥った1990年4~6月に亡くなられた方々 

 成田三樹夫、グレタ・ガルボ、池波正太郎、早野凡平、藤山寛美、木暮三千代、出門英 

(つづく)

タイトル文字・写真・イラスト=筆者

岡崎武志

おかざき・たけし 1957年大阪生まれ。立命館大学卒業後、高校の国語教師、出版社勤務を経てフリーライターに。「神保町ライター」の異名を持つ。近著に『憧れの住む東京へ』(本の雑誌社、2023年)、『古本大全』(ちくま文庫、2024年)、『ふくらむ読書』(春陽堂書店、2024年)などがある。

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