「ゲームに出るプレーヤー」と「試合に出る選手」。同じ意味だが、ニュアンスはずいぶん違う感じがする。なぜ日本の体育の授業や運動部の活動には「つらい」とか「厳しい」とか「タテ社会」といった、かなり楽しくないイメージがつきまとうのか? おそらくそれは競争と順位づけの世界だからだろう。多くの指導者も評価されるために勝利至上主義に陥り、肝心要の長い目で成長を促す役割を放棄している。そうした状況がもたらすものとは? ラグビープレーヤーとして活躍し、現在はスポーツと教育に関する研究者として活動する平尾剛さんに聞いた。
置き去りにされる子がいる
――ラグビー日本代表として活躍した平尾さんが、スポーツ教育や身体論を研究するに至った経緯を教えてください。
ぼくが脳しんとうの後遺症で現役を引退したのは2007年のことです。引退前から、いずれは高校ラグビーの指導者になろうと神戸親和女子大学大学院で、教育学について学んでいました。
教育についての知識を深めるなかで、子どもの頃からの違和感が腑に落ちていきました。たとえば、子どもの頃から「運動」は好きでしたが「体育」は好きになれなかったんです。なぜなのか当時は言葉にはできなかったのですが、小さな疑問としてわだかまりがありました。
また、現役時代にケガをおしてムリに試合に出場したこともあります。ふだんのパフォーマンスを発揮できませんでしたから、次の試合ではメンバーから外されました。この反省から、次にケガをしたとき、「60%の力しか出せないから、試合に出られません」と言ったら、そのあとケガが治っても試合に出してもらえなくなりました。そうした理不尽に対して「なんでやねん」と思いながらも、自分を押し殺して従うしかなかった。

引退の一年前から、友人の勧めで『毎日新聞』大阪版で「平尾剛の身体観測」というコラムを連載し始めました。当初は、自分自身の経験や、ラグビーをテーマにしていましたが、報道などで見聞きしたスポーツや教育のことにも次第に触れるようになるにつれ、自分がいかに日本のラグビー界という内輪の価値観でしか物ごとを考えていなかったかに気づかされました。
教育学やスポーツについて学びながらコラムを書くことを通じて、視野が広がっていく感覚がありましたね。それで、このまま研究を続ければ、ぼく自身のスポーツ経験の是非を言語化し、日本のスポーツ教育や、体育に内包される問題点を社会に発信できるのではないかと考えたのです。
――日本のスポーツ教育には、どのような問題があると感じてますか?
ひとつ挙げるとすれば、指導する側の余裕のなさです。
昔から「量」が「質」を凌駕するかのような指導が行われてきました。いわゆる根性論です。厳しく鍛えれば鍛えるほど、子どもの競技力が上がっていく。そう信じている指導者は少なくありません。
しかし、むやみやたらに練習を繰り返したからといって、身体を上手に動かすためのコツをつかんだり、新しい動きを習得できたりするでしょうか。教えられなくても感覚を身につけられる飲み込みが早い子もいますが、じっくり時間をかけて新しい動きを習得する子どももいます。
つまり指導者は、一人ひとりの子どもの感性や身体感覚を見極め、その子がコツをつかむまで待ってあげなくてはならないんです。自分の身体感覚を探りながら、運動を習得していく――それはとても時間のかかる営みです。
本人がどれだけ努力してもうまくコツが身につかないとしたら、指導者はその子の癖や、視線の置き所、スタンスの幅など些細な動きに気を配って声をかけなければなりません。つまり指導法自体を見直す必要があるんです。にもかかわらず、なかなか感覚をつかめない子どもを置き去りにする指導や教育が行われています。
個の成長よりも勝利を優先
――指導者から余裕が失われている背景には何があるのでしょう。
短期的に結果を求められているからです。たとえば高校なら三年間という限られた期間で結果を出さなくてはなりません。とくにスポーツ強豪校では、保護者も学校も、生徒・学生本人も勝利という結果を求めます。
指導者自身もチームが強くなれば、自分の評価が高まると考える。強豪校になれば、多くの才能豊かな選手が集まるようにもなり、それが結果につながって、周囲の評価が高まっていく。こうした循環になると、生徒・学生をチーム強化の駒として扱いがちになります。スポーツを通じて、子どもや若者をよき大人にしていこうという長期的な視野が失われてしまうのです。
言ってみれば、いまの日本のスポーツ教育は、育成ではなく、選別です。野球やラグビーでは百人以上の部員を抱える強豪校は少なくなく、三年間ずっとベンチという選手もざらにいます。試合に出られなかった生徒・学生の中には、自分が選んだスポーツの面白さや魅力に触れられないまま三年間を終えてしまう子もいるんです。
国際的に見れば、日本のスポーツ教育はこの点で異質です。
スペインのプロサッカークラブ、ビジャレアルCFでコーチをしていた佐伯夕利子さんによれば、スペインではユース世代の選手全員に試合出場の機会を与えなければならないルールがあるそうです。またスペインでは19歳まで全国規模の大会がありません。この時期は、勝つための戦術取得よりも、サッカーの楽しみを味わいつつ個の能力を伸ばす指導を優先するからです。
日本のスポーツ教育の現場では、個の成長よりも勝利が優先されます。その問題に気づき改革に踏み切ったのが、小学校のミニバスケットです。
十年ほど前から、ミニバスケットではゾーンディフェンスが禁止されました。ゾーンディフェンスは、小学生でも比較的簡単に身につけられる組織的な守備システムです。ゾーンディフェンスを徹底すれば、勝利に近づきます。ですから目先の勝利にとらわれた指導者はゾーンディフェンスを教え込もうとするでしょう。しかしゾーンディフェンスの禁止によって、選手たちは一対一で相手を抜く工夫をしたり、必死で止めようとしたりするようになります。試合を、文字通り個人の実力や技術を試す機会にしたんです。
そもそも小学生時代は自分自身の身体感覚を内側から感じ取り、深めて、その競技の基礎的な動きを吸収していく年代です。幼いうちから、個人の成長をないがしろにし、組織的なディフェンスの体得に終始したら、伸び盛りの時期だからこそ身につく身体感覚の深化がおろそかになってしまいます。
しかもミニバスケットボールの全国大会では優勝チームを決めません。トーナメント方式ではなく、参加チームの交流戦と位置づけます。選別や勝利至上主義ではなく、育成という観点から導入された仕組みと言えます。
解消されない理不尽なタテ社会
――ほかの競技での取り組みで示唆に富むものはありますか。
帝京大学ラグビー部の取り組みですね。監督として、史上初の大学選手権九連覇を成し遂げた岩出雅之さんは、1996年の就任当初、このままでは絶対強くなれないと思ったそうです。
大学の体育会の部活動の多くは、典型的なタテ社会です。四年生が神様、三年生が人間、二年生が奴隷で一年生は空気なんて言われます。下級生は上級生に言われればどんなに理不尽なことにも従うしかない。岩出さんはその体質にメスを入れたのです。上下関係が当たり前という先入観を捨てさせ、大学生活やラグビー部の生活に慣れない一、二年生の負担を減らすため、寮での雑用をすべて三、四年生の役割にしました。もちろん部の体質改善には時間がかかったと思いますが、時間を惜しまずに代替わりしても常に高いレベルを維持する本当に強いチームに育て上げたのです。
講義でこの話をすると、学生たちからは「本来そうあるべきだと思っていました」という反応が返ってきますね。
関西学院大学アメリカンフットボール部の監督を長く続けた鳥内秀晃さんにお目にかかったときに、この帝京大ラグビー部の改革の話をしたんです。そしたら鳥内さんはすかさず「うちは三十年前からやっとる」とおっしゃいました。一年生は多くの授業に出なくてはいけないし、身体をつくるために筋力トレーニングもしなくてはならない。全体練習以外に時間が必要なんです。その時間を確保するために、練習の準備や雑用は三、四年生が担うというわけです。
理不尽なタテ社会の解消が、なぜほかの学校に広まらないのか? 帝京大ラグビー部や関学大アメフト部は特別なのか? あるいは一年生は厳しい下積みを経験して這い上がっていくという指導者の成功体験、もっと言えば、下積みが選手を強くするという昔から部活動で共有された「物語」が払拭できないのか……。
下級生と上級生の役割を変える。それは一朝一夕ではできません。選手に浸透するまでにはそれなりの時間も必要でしょう。そう考えると、指導者が短い期間で結果を求められる環境が厳然とあるという問題に突き当たります。岩出さんも鳥内さんも長期間にわたりチームを指導しましたが、大学側の理解はもとより、保護者や関係者のサポートもあったはずです。
――学生スポーツにおける勝利至上主義に変化は見られるのでしょうか。
以前よりも勝利至上主義は強まっているように感じています。この流れは今後さらに加速していくのではないかと懸念しています。
というのも、公立中学校の運動部活動を地域へ移行させる動きが段階的に始まっているからです。運動部の地域移行は、少子化や教員の負担軽減、専門的な指導者の確保などを目的として導入されました。
これまで部活動が行われていたのは、その子どもが通う学校の体育館やグラウンドでしたが、地域移行によって、部活動のために、遠方の施設に通わなければならず、交通費や送り迎えなど、保護者にも経済的、心理的な負担がかかります。
とくに地方で問題となっているのが、専門の指導者が少ないこと。遠方からふさわしい指導者を呼ぶとなれば、交通費や人件費が嵩みます。これらの費用は受益者負担になり、保護者が支払うことになります。
すると何が起きるのか? どうしても保護者は送り迎えや人件費などのコストをかけているのだから、「勝ってほしい」「結果を残してほしい」という気持ちになります。この保護者の期待を背負おうとして、「質」よりも「量」を強いる指導者も出てくるはずです。
こうした勝利至上主義への批判についてまわるのは、「みんなで手をつないで一緒にゴールするのが、正しいスポーツのあり方なのか?」という反論です。でもそんなことが言いたいのではありません。健全な競争は選手を成長させて、競技レベルを上げます。競争は、スポーツに不可欠な要素ですが、勝利至上主義になると話が変わってきます。競争主義が行き過ぎた先に出来するのが勝利至上主義ですから、競争主義を否定しているわけではないんです。勝利を至上とする考え方が、スポーツで得られるはずの子どもや若者の成長を奪っているのです。
ただし競争主義には多大なストレスが伴うから、子どもの成長に合わせてその程度を見極めなければなりません。
――そういえば国連子どもの権利委員会は、過度に競争主義的な日本の教育制度に対して、これまで何度も勧告を出していますね。
それは教育現場だけではなく、日本社会の構造的な問題です。
十年ほど前、東京の麹町中学の校長をつとめた工藤勇一さんが、過度な競争社会に危機感を覚え、宿題や定期テストを廃止して話題になりました。しかし工藤さんが退任したら、以前の教育に戻ってしまった。誰かが現状を変えようとしても、結局は単発の取り組みに終わって、組織や社会に定着しない。それだけ日本社会に競争させることを是とする価値観が深く根付いているといえます。
もしも文部科学大臣が「中学生の試験を全廃します」「競争は一切させません」と宣言したら、日本社会はどう反応するでしょうか。
それを実践したのがフィンランドです。1994年に二十九歳で教育大臣に就任したオッリぺッカ・ヘイノネンは「競争よりも平等」「詰め込みよりも思考」と訴え、全国一斉テストや、順位づけをやめました。就任当時、20%近かった失業率が十年後には約6%まで下がりました。社会の活力がアップし、子どもの学力でいえばフィンランドは常に世界一です。
ぼくには、日本とフィンランドの教育が、たとえていうならラグビーの強豪高校と地方の公立高校の違いと重なります。
少子化とはいえ日本は、まだ1億2000万の人が暮らしています。一方のフィンランドは約560万人。百人の部員がいる強豪校では、厳しい競争を勝ち残った選手を起用すれば、強いチームができる。しかし部員が二十人足らず、あるいはもっと少ない地方の公立高校では、一人も欠けてはならない。指導者は一人の落ちこぼれも出ないように、一人ひとりに丁寧に指導して、育成しなければなりません。ふるいにかけるなんて、できないんです。
選別なのか? 育成なのか? スポーツ教育の、ひいては日本の教育のあり方が、いま問われています。
■聞き手・文 山川徹

ひらお・つよし 1975年大阪生まれ。中学校からラグビーを始め、同志社大学卒業後は三菱自動車工業京都、神戸製鋼コベルコスティーラーズで活躍。現役時代のポジションはフルバック、ウィング。日本代表キャップは11。現役時代から、神戸親和女子大学大学院文学研究科で教育学を専攻。2008年3月に修士課程を修了。現在、成城大学経済学部教授。研究テーマは「身体とスポーツ」「子どもの発達に根ざしたスポーツ教育」。著書に『合気道とラグビーを貫くもの-次世代の身体論』(朝日新書、内田樹氏との共著)、『近くて遠いこの身体』(ミシマ社)、『ぼくらの身体修行論』(朝日文庫、内田樹氏との共著)、『脱・筋トレ思考』、『スポーツ3.0』(ミシマ社)など。

