子どもたちが必死にSOSを出していることを痛感している大人はどれくらいいるのだろう? 子どもたちの間で起きている「いじめ」「不登校」「暴力」「自殺」はニュースや記事で目や耳にしても、それが深刻なSOSであるとは受け止めていないのではないか。日本社会に向けられた国連子どもの権利委員会の指摘はこうだ。「極度に競争的な教育制度」が〝子ども時代のはく奪〟につながっている、と。大人にその自覚もなく、相も変わらず偏差値を重視している社会。このような教育環境は、もうやめませんか。
子どもたちは危機に陥っている
――野井さんは長年にわたり、子どものからだと心について研究をされてこられました。今の子どもたちの状況、どうなっていますか?
いろいろなSOSが出ているなと思います。「ポリクライシス(polycrisis)」という言葉があります。複数の世界的な危機が絡み合って、相乗的に大きな影響を及ぼす状況を指す言葉ですが、今の子どもたちの周りには、「学力偏重」「貧困・格差」「虐待」「政治的混迷」など、さまざまな危機があって、それらが複合的に絡み合い、競争、自己責任、先行き不透明感などを生んでいます。まさしく「ポリクライシス」で、これらが子どもたちのからだと心にも影響を及ぼしています。
そのことは「いじめ」「不登校」「暴力」「自殺」の四つのインジケーターからも見えてきます。「いじめ」は、社会からかかってくるプレッシャーを他者に転嫁して起こる問題です。「不登校」はプレッシャーからの忌避、「暴力」はプレッシャーへの抵抗、そして「自殺」はプレッシャーを感じる自己を破壊しよう、透明化しようとして起こる問題・現象です。いずれも過去最多となっています。加えて、最近はエナジードリンクを含む「オーバードーズ」の問題もしきりに言われています。「オーバードーズ」はプレッシャーからの一時的な逃避だろうと捉えています。
――確かに、いずれも子どもたちからのSOSですよね。
しかも現れている異変はこれだけではありません。従来から指摘されてきたことですけれども、病気や障害ではないのだけれど健康とも言えない、〝おかしさ〟としか表現できない問題も多様化してきています。
私たちが行ってきた前頭葉機能に関わる調査では、幼稚で落ち着かない子が、特に男の子で増えている様子が確認されています。また、良い子と見られがちな抑制型の子が、前頭葉機能に関するどの調査においても一定数ずつ存在するようになりました。それから自律神経の調査においては、交感神経が優位で過緊張気味な子どもたちが多いことも確認されています。これら前頭葉機能や自律神経機能の根底にあるのが睡眠の問題とも言えますけれど、どのデータを見ても、日本の子どもたちは世界でいちばん睡眠時間が短くて、睡眠と覚醒のリズムも乱れています。
じつはこうした症状は、虐待を受けている子たちに特徴的な症状とされているんですね。私たちの調査は、いずれも園や学校から依頼されて行ってきたものですから、いわゆる「普通の子」「健康な子」と思われている子どもたちです。なのに、同じような症状を見せているのはなぜなのか?ということです。
子ども時代を保障する=遊びを保障すること
――子どもたちが壊れている、壊されているとしか言えない状況ですね。
国連もそのように見ているのか、日本は国連子どもの権利委員会からも幾度か勧告を受けています。2019年3月の勧告では「社会の競争的な性格により子ども時代と発達が害されることなく、子どもがその子ども時代に享受することを確保するための措置をとること」と言われているんですね。
これは第45回の最終所見で、じつは過去にも3回同じような所見を受けています。ただ過去の所見では「極度に競争的な教育制度」という言い方だったのが、「社会全体の問題」へと拡大され、なおかつ〝子ども時代のはく奪〟と紐づけて指摘されているわけです。
それで個人的に「こうした勧告を同じように受けている国はあるのか」と思って、他の国の勧告を片端から読んで比べてみました。その結果、教育制度、さらには社会の子どもに対する圧力と、それによる健康被害が指摘されている国は、日本と韓国と中国の一部の地域だけでした。しかも、子ども時代のはく奪の問題と発達の問題が紐づけられて指摘されている国は日本だけ。つまり日本は、国際社会から「子ども時代を保障しなさい」と言われてしまっているわけです。
――中国、韓国、日本に共通するのは強烈な学歴社会であること、偏差値が重視されるということですね。それをやめることが子ども時代を保障することにつながっていきそうです。
では子ども時代を保障するとは、一体何を保障すればいいのかということですよね。子ども時代の象徴って、やっぱり子どもによる子どものための遊びの文化だと思うんです。
人間は動物です。動く物ですよね。それから人間は人の間と書きます。動かないと人間にはなれないし、群れてはじめて人間になるわけです。遊びには動くことも群れることも必然的に内包されています。子ども時代の保障とは、言い換えると遊びを保障するということだと思うのです。
と、このように言うと、遊びも大事だけれど、学びも大事と必ず言われてしまうのですが。
――そうですね。大人の口からは「勉強も大事」と必ず出てきます。
でも、そもそも「遊びは学び」なんですよ。小学校に入学したての子どもたちを見るとわかります。先生から「立ちましょう」と言われたら「は~い!」と言って立ちますし、「座りましょう」と言われたら「は~い!」と言って座るわけです。それまでの人生の中で、子どもたちはこれをどこで教わったのか。チョークと黒板、教科書とノートで教わったわけではなく、毎日の生活や遊びの中で学んできたと思うんです。
遊びは学びで、遊ぶことが嫌いな子はいない。ということは、学ぶことも子どもたちは嫌いではない。その証拠に、園に行って来年から小学生になる子たちに「学校に行ったら何したい?」と尋ねると、「お勉強!」と言う子がすごく多い。大人だって、知らなかったことを知ったり、できなかったことができたりするとうれしいですし、楽しいですよね。子どもも同じです。おまけに「学校に行ったらいろいろなことを教えてもらえる」と聞いているから、楽しみで仕方がない。
ところがいざ入学してみるとチョークと黒板を前に自分用の机と椅子が準備されていて、時間割りでガチガチにされ始める。そうすると学校から離れていく子が出てきてしまう。本来、学びは楽しいものなのに、不登校や自殺がこれほど深刻化しているのですから、その楽しさを引き出しきれていない教育システムになってしまっていると思うんです。
「エデュケーション」の本来の意味とは?
――自分の小学校時代を思い返すと、学校に行くということは友達に会うことで、休み時間に友達と遊ぶことが目的でした。勉強なんてオマケみたいなもので。
コロナ禍のとき、ほとんどの学校が休校になったことで、休校中と休校明けの子どもたちの声を聞いてみようと調査したのですが、困りごととして最も多かったのが「思うように外に出られないこと」、次が「友達に会えないこと」だったんです。勉強を教える、勉強させることだけが学校の存在意義ではないということですよね。
院生時代、「education(エデュケーション)」の語源は、ラテン語の「educere(エドゥセア)」にあると教わりました。エドゥセアの最初の「e」は「外へ」という意味で、「ducere」は「引き出す」。つまり、エデュケーションとは、それぞれの子どもたちがもっている能力をどう外に引き出すかということなんです。最近は「educatio(エドゥカシオ)」だったのではないかという説もあるようですが、エドゥカシオの動詞は「educare(エルカーレ)」で、これには「育てる」という意味しかない。日本語でエデュケーションは「教育」とされていますけれど、どちらにも「教える」は含まれていないんですね。
――語源から言うと「能力を外に引き出して育てる」になると。
「教え込む」にはならないんです。「教え育てる」と書くと、教えるほうは一生懸命教え始めるし、教わるほうはお行儀よく教わらなきゃいけないみたいになってしまう。
教育のワンシーンをイメージしましょうと言われたら、おそらく多くの日本人は、机とイスがきれいに並んでいて、そこに子どもたちがお行儀よく座り、先生らしき人が黒板を背にして立っている教室のシーンを思い浮かべると思います。
でも僕らがイメージする教室って、ヨーロッパとかオーストラリア、ニュージーランドあたりに行くと見当たりません。そうした国の小学校の教室の中はもっと自由です。たとえば先生の周りには、先生の話を聞きたい子たちが机を丸く並べていて、その横には大きなワーキングデスクがあって、そこで作業をしている子もいる。教室の後ろのほうではソファーやバランスボールのようなものが置いてあって、そこでピョンピョンしたり、本を読んだりしている子もいる。日本のようなスクール形式ではないんですね。
もっている能力を引き出そうとか、育てようとなったときには、いろいろなバリエーションがあったほうがいいと思うんです。
学校には、教師と子どもの縦の関係だけではなく、子ども同士の横の関係からの学びもあります。ときには年上・年下との斜めの関係からの学びもあるでしょう。同級生、年上の子たち、年下の子たちといった重層的な関係の中にこそ、エデュケーションの本質があるんじゃないか。イメージとしては保育所や幼稚園、放課後の学童クラブ、休み時間の保健室のソファーとか、群れ合ってカオスみたいな状態になっているところに真のエデュケーションがあるのかもしれません。
子どもは外遊びでできている!
――子どもたちは横の関係と斜めの関係からも学び合っている。そう考えると、子ども同士での遊びは本当に大事ですね。ところが今の子たちは、遊びの機会も場所も奪われてしまっています。
そうなんですよね。子どもは遊び、とくに外遊びでできています。これからは学校教育でも外遊びを保障していくことが大事なのではないかと思うのですが、気候変動で夏は異常な暑さになりますから、熱中症警戒アラートの発令に伴う外遊びの禁止というのが日常になっていて、保障してあげたくてもできなくなっているのも現状です。
けれども気候変動の問題は一年や二年では解決しません。熱中症警戒アラートを出しておけばいいといった短期的な対応に満足していてはダメで、中長期的な対応をいろいろな分野で大真面目に考えなくちゃいけないと思うんですよね。
で、最近僕があちこちで言って回っているのが、日本中の園や小学校のグラウンドを森にしたらどうかという提案です。森にしたら木陰ができるし、木陰になれば涼がとれる。涼がとれれば暑くても外遊びを禁止しなくてすみます。それどころか町の緑化は温暖化対策にも貢献できるし、目の前に森があったら「外に出ましょう」なんて言わなくても勝手に出てくると思うんですよ。子どものからだと心の分野に関する研究知見から言うと、日中の太陽光の受光は生活リズムの乱れを是正し、近視の進行も抑制してくれる。メンタルヘルスにも、免疫力低下にもいい。いいことばっかりです。
実際、長野県にはもう、そういう小学校があります。広庭と呼ばれる校庭のほかに森のような前庭があって、休み時間になると子どもたちが木陰で遊んでいるんです。遊びというのは子どもたちの未来を保障するもので、未来を確実に保障するためには、大人の発想力とか柔軟性、子どものような遊び心といったものの本気度が問われているのではないかと思います。
――外遊びの代わりにスポーツをさせるというのはどうなのでしょう?
遊びとスポーツは違います。子どもの心を育てるのはスポーツじゃなくて遊びなんです。
たとえば仲間とサッカーをしようと空き地に行ったらトラックが停まっていたとします。もしトラックのほうにボールが行くと危ないなとなったら、「トラックのほうに蹴ったら相手に1点にしよう」とか、「1点はきついから相手ボールにしよう」とか、子どもたちなりにそこで知恵を出し合いますし、実際にやってみてうまくいかなかったら、柔軟にルールを変えたりもします。
5時のチャイムが鳴って、負けていたほうのチームの2人が帰ってしまった。そのときに勝っているほうのチームがメンバーをひとり譲ったりする。なんでそんなことをするのかと言えば、みんなで楽しく遊ぶためです。
サッカースクールでは、こんなことはあり得ないわけですね。スポーツになると大人たちがすべてお膳立てをしてくれますから、試合会場に行ったらトラックが停まっていたなんてこともないし、ルールも厳格に決められている。相手チームの人数が少なくなったら、「これで勝てる! ラッキー」と子どもたちは思うだけでしょう。
遊びでは、今ある環境のなかで楽しく遊ぶために工夫したり、考えたり、子どもたちだけでいろいろ頭を使わないといけない。スポーツにはそれがありません。スポーツを否定するわけではありませんが、どちらが子どもたちに必要かといえばやっぱり遊びなんです。
必要なのは価値観と発想の転換
――日本の子どもたちは子ども時代を保障されていない。そのように国際社会からも言われてしまっているわけですから、子どもたちのためにどうシステムを変えていけるかを考えていかないといけないですね。
それには子どもたちの声を聞いていくのが本当はいいのだと思います。ただ、意見を表明していいという教育に日本はなっていないとも思います。
ドイツの学校で体育の授業を見せてもらったとき、始まってすぐ子どもたちが円になって話し合いを始めたんですよ。インクルーシブなので電動車椅子の子もいれば健常の子もいるし、輪の中には先生も一緒に混じって話を聞いている。体育の授業なのに十五分くらい延々と話しているので、何をしているのかと思ったら、ルールを決めて、その確認をしていたんですよね。話し合いが終わったら、その後は汗だくになってドッジボールのようなことを始めたのですが、見ていて「こうしたことが意見を表明する訓練にもなっているんだな」と感じました。
自分たちで考えて、自分たちで意見しないと何も決まっていかない。先生も口を出さずに見守るだけ。そういう機会を与えられなければ、意見を述べる訓練もできません。遅ればせながら、今ようやく子どもの権利であるとか、子どもの意見表明権とか言われ始めましたが、「あなたたちには権利があるんだから、言いたいことは言ってごらん」と言われても、言えるわけがないと思うんです。日本人は主張ができないというのも、そういう教育をしてこなかったからですよね。
――求められているのは大人たちの価値観の転換かもしれません。
発想も変えていく必要があると思います。みんな「自分が受けてきた教育が教育なんだ」と疑わず、妄信してしまっていると思うんですよ。ベースは変わらないまま、小手先で学習指導要領を変えたり、仕組みを変えたりしているけれども、土台のところを変えていかなくてはいけないのではないでしょうか。
少子化で学校が減っていくことはやむを得ないことです。でも僕は逆にこれはチャンスだと思うんです。そこで今までのような教育をやっていたら、「もう教育はいらない。AIがみんな教えてくれますよ」って話になります。
繰り返しになりますが、子どもたちは決して「チョークと黒板」や「教科書とノート」だけで学んでいるわけじゃない。それらで学んでいないとは言わないけれど、それらだけで学んでいるわけではありません。教科書を開いているときだけがお勉強みたいに、偏った学びだけを要求していないだろうかと考えてみることが大切ですよね。大人たちが今までの固定観念を一回捨てて、「そもそも学びって何だったの?」「そもそも学校って何なの?」「そもそも子どもって何なの?」と遡って考え始めていくことで、子どもたちの未来のための教育が見えてくるのではないかと思います。
■聞き手・文 八木沢由香

のい・しんご 1968年、東京生まれ。日本体育大学大学院修了、体育科学博士。東京理科大学理工学部専任講師、埼玉大学教育学部准教授を経て現職。子どものからだと心・連絡会議議長、教育科学研究会「身体と教育」部会代表。教育生理学、学校保健学、発育発達学、体育学を専門領域として、子どものからだと心についての研究を続けている。著書『子どもの“からだと心”クライシス』(かもがわ出版)など。

