【フォトエッセイ】日本の包み紙 Collection◎上ヶ島オサム――第23回/小林かいちの絵封筒

第23回 小林かいちの絵封筒

 大正後期から昭和初期にかけて日本の女性カルチャーの中で流行した絵封筒について、当時の女性誌『婦女界』は、昭和3(1928)年10月号で次のような言葉を添えてグラビア記事で紹介している。

「若い人や女学生の間に絵封筒が大流行です。日本紙に木版刷りといふ日本情緒が、モダーンな人を却つて惹き付けるのでせう――」(「大流行の絵封筒」)

 この時代の絵封筒は縦寸が約15.5 cm、横寸が約6.3 cmほどで、現在の定型封筒の長形4号より二回りほどコンパクトなサイズになる。表側に4版から5版の多色刷りで女性好みのモチーフを描いた図案が印刷されていて、5種類の10枚組や1種類の5枚組、10枚組セットが土産物店や文具店で販売されていた。
「大流行の絵封筒」の記事を書いた記者は、「実際の通信に使はず、手文庫へ納つて置いて、眼を楽しませるものです」と、流行の広がりはコレクションすることにあったことを伝えている。実際には、骨董市に出てくる絵封筒には、グラシン紙で包んで宛名書きしたもの、デザインの無地の部分や裏面に宛名書きしたものがあり、郵便封筒として使っていた人がいた様子が分かる。

 大正から昭和初期に作られた絵封筒は、竹久夢二、杉浦非水といった人気画家がデザインした〝作家もの〟もあるが、多くは画壇では名が通っていない作者の手によるものである。京都の三条新京極にあった土産物店、さくら井屋で絵封筒と絵はがきを手がけていた図案家の小林かいちも、画壇では名が知られていない人であった。彼は、アール・デコの影響を受けた構図と色彩を用いて、草花や月と星、舞妓といったモチーフとトランプ柄やチェス盤といった意匠を組み合わせたデザインで人気を集めた。

 小林かいちは、明治29(1896)年に京都の丹波地方で小林家の長男・嘉一郎として生まれた。絵を学んだ経歴と描き始めた時期は一切不明だという。かいちが21歳だった大正6(1917)年に撮影されたポートレートに「う多治」のサインをしていること、大正11年に発行された『京都図案家銘鑑』には、かいちの本籍地に在住する着物の裾模様図案家として「小林歌治」の名前が掲載されていることから、小林かいち(嘉一郎)は歌治(う多治)と同一人物だと推定されている。
 大正12年にさくら井屋で発売された絵はがきに「小林うたぢ」の作者名のものがあることが確認されている。「小林かいち」を名乗るようになったのもこの頃ではないかと考えられている。戦後のかいちは、着物の図案家として小林嘉一の名で仕事をしていたことが分かっている。絵封筒作家の仕事を終えた時期や、「かいち」「うたぢ」とは別名義でデザインした絵封筒があったのかは不明だという。

 かいちの絵封筒に注目した文学者に谷崎潤一郎がいる。
 関東大震災後の大阪を物語の舞台に、昭和3(1928)年から5年にかけて雑誌『改造』に発表した長編小説『卍[まんじ]』の中で、互いに恋愛感情を持つ裕福な商家の女性二人と、それぞれの夫と恋人が交差する倒錯的な人間関係を追ってゆくストーリーを進める道具仕立てに選ばれたのが、かいちの絵封筒だった。
 谷崎は、物語に差し込まれた作者注の言葉の中で、女たちが交わす恋文を包んでいる絵封筒について、そこに描かれたサクランボとトランプのハートの模様といった要素一つひとつを取り上げる一方で、それらに言及する理由を「思うにそれらの意匠の方が時としては手紙の内容よりも、二人の恋の背景として一層の価値があるからである」と述べている。

〔参考文献〕
山田俊幸他編『増補新版 小林かいちの世界 まぼろしの京都アール・デコ』(国書刊行会、2024年)
生田誠・石川桂子『小林かいち 乙女デコ・京都モダンのデザイナー』(河出書房新社、2013年)
久米康生『京のからかみと千代紙』(雄松堂出版、1986年)
「大流行の絵封筒」『婦女界』第38巻4号(1928年10月)
谷崎潤一郎『卍[まんじ]』(岩波文庫、1985年)

【上ヶ島さんの絵封筒コレクション《小林かいち編》】

 上ヶ島オサムさんの絵封筒コレクションから、小林かいちがデザインしたさくら井屋の絵封筒を紹介します。ぜひお楽しみください。(画像をクリックすると拡大表示されます)

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上ヶ島オサム

かみがしま・おさむ 紙物収集家。1957年北海道生まれ。東海大学工学部卒。著書に『レトロ包装シール・コレクション』(グラフィック社)、『絵はがきのなかの札幌』(北海道新聞社)、『さっぽろ燐寸ラベルグラフィティー』(亜璃西社)などがある。

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