この世界から、偏見、憎悪、差別がなくなることはないのだろうか。いま埼玉県の川口、蕨で起きている在日クルド人への攻撃では「奴らを殺せ」「皆殺し」といった、あまりにもひどい表現が飛び交っている。なぜこのようにエスカレートするのか。髙橋幸春さんが取材をした。
前回の記事はこちら「【ジャーナル】普通の人がレイシストに変身するとき(上)」
大型連休になると増えるヘイト
被告側(「日の丸街宣倶楽部」渡辺賢一代表)の代理人が欠席するという前代未聞の第一回口頭弁論。その法廷で、「クルド民族へのヘイトデモ訴訟に係る意見陳述書」で原告側(クルド文化協会)の思いが述べられた。
「(略)他県から川口市に来てはクルド人排斥デモを行う者も現れました。その一人が神奈川県海老名市から来た被告であります。
被告は、在日朝鮮・韓国人排斥デモを繰り返してきた『在日特権を許さない市民の会』(『在特会』)の後継団体『日本第一党』のメンバーでした。『第一党』を辞めた後も、被告は、川崎の駅頭で在日朝鮮・韓国人に否定的な街頭宣伝活動を繰り返してきました。そして、2023年9月頃から、クルド人を新たなターゲットとして蕨駅周辺等でデモや街宣活動を頻繁に行うようになったのです。被告のデモや街宣は『自爆テロを支援するクルド協会は日本にいらない。テロを肯定する外国人との共生はない』『根絶せよクルド犯罪と偽装難民』等とプラカードを掲げて原告の事務所周辺を行進したり街宣をしたりするもので、参加者は、被告に煽動され、『不良外国人は日本から出ていけ』『クルド人は祖国に帰れ』等と叫んでいます」
そしてこう結んでいる。
「多くの在日クルド人、とりわけクルドの子供たちを差別から守る判決を下して頂きたく、本訴訟に及んだ次第です」
裁判は始まったばかりだ。現在の日本には、差別を取り締まる法律はない。ヘイト犯罪に対する刑事規制はなく、侮辱罪、名誉毀損、脅迫罪、威力業務妨害、迷惑防止条例違反を活用しながら、告発するしか方法がない。
しかし地道な闘いをつづけ、実効性のある条例制定にまで漕ぎつけたのが、川崎市の在日コリアンだ。
東京・新大久保のコリアタウンで、ヘイトデモが行われるようになったのは、2009年頃からだ。主催しているのは「在特会」をはじめとする、「行動する保守」を標榜する〝愛国者団体〟だ。
「在特会」は、在日コリアンは「税金や公共料金が減免・免除される」「優先的に生活保護が受けられる」などの「特権」があるとし、「それを許さないこと」を目的に2006年末に設立された。こうしたヘイト団体が2013年に川崎でもヘイトデモを始めた。
「最初に川崎駅でヘイト団体が拡声器で演説する声を聞いたとき、私は子どもの手を引いて、逃げるようにしてその場から立ち去りました。『在日を殺せ』という言葉が何のためらいもなく発せられていたからです」。
1995年から川崎市ふれあい館のスタッフとして働き、現在は館長を務める崔江以子[チェ・カンイヂャ]さんはその時の様子を語る。
それから間もない2015年11月には、「在特会」は在日コリアンが多く暮らす川崎区桜本にやってきた。デモの先頭には「日本浄化」と書かれた横断幕をかかげていた。プラカードには「帰れ! 帰れ」という文字が記され、デモ隊は「死ね」「殺せ」と口々に叫んでいた。
しかし、そのデモを規制する法律はない。法の整備を政府に訴えた崔さんらは人種差別撤廃施策推進法案の審議に参考人として呼ばれ、そこで実情を訴えた。その結果、「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律(平成28年法律第68号)」、いわゆる「ヘイトスピーチ解消法」が成立し、2016年6月3日に施行された。
ヘイトスピーチ解消法には罰則規定はなかったものの、「本邦外出身者」に対する「不当な差別的言動は許されない」と宣言している。ヘイトスピーチ解消法は地方自治体の行政に大きな影響を与えた。ヘイトデモを抑制する法的根拠となった。川崎市はヘイトデモには公園を貸さなくなり、横浜地裁川崎支部はヘイトデモを禁止する仮処分を出した。
2019年にはヘイトスピーチに刑事罰を科す「川崎市差別のない人権尊重のまちづくり条例」を成立させた。その一方で決して止むことのない差別に対して、在日コリアンは、侮辱罪、名誉毀損罪、威力業務妨害罪、迷惑防止条例違反で告発し、闘ってきた。崔さんら在日コリアンの闘いについては、『「帰れ」ではなく「ともに」』(大月書店、2024年)に詳しく描かれている。
しかし、それでヘイトクライムが根絶できたわけではない。ヘイト団体は、川崎市の条例が適用されない隣接市でヘイトデモを繰り返し、インターネット上でヘイトスピーチをそれまで以上に激しい口調で続けた。
「今でもSNSによるヘイトは続いています。特徴があって、盆暮れ、正月、ゴールデンウィークには必ず増えるんです。『死ね』『帰れ』と言われることなく普通に暮らしたいだけなのに」と崔さんは語る。
川崎駅前では、毎週日曜日にはヘイトデモ、集会が行われないよう監視するために、市民による読書会が開かれている。そうした地道な活動に動きを封じ込められ、追い詰められたヘイト団体が新たなターゲットにしたのがクルド人だった。在日コリアンに向けられたのと同じヘイトスピーチがクルド人に繰り返された。 法務大臣が特別に在留資格を与える特別在留許可を得た者、あるいは在留資格のない者約2000人から3000人のクルド人が川口市、蕨市に住んでいる。
マイノリティーを攻撃し溜飲を下げる「普通の人」たち
「帰れ」という言葉は、在日コリアン、クルド人だけではなく、実はブラジルからデカセギに来日している日系人にも投げつけられてきた。
私は今から50年前にブラジルに移住した移民の一人だ。日系三世の女性と結婚し、現在、生活基盤は日本に置いている。1990年の入管法改正と同時に、ブラジルやペルーから多くの日系人がデカセギに来日した。妻の親戚もデカセギにやってきた。彼らの多くが「帰れ」という言葉を聞いている。彼らがいちばん傷ついた言葉だ。
入管法改正で、栃木県真岡[もおか]市でもデカセギが急増し、外国人労働者が日本人女性を襲っているといったデマが流れた。デマの拡散に慌てた地方自治体や警察が躍起になって事実を否定し、各戸に広報誌を配布したことによって、この騒動は「収束」に向かった。大量の日系人、ニューカマーが日本で暮らすようになり、さまざまな噂が流れたが、根底にあるものは外国人に対する偏見や拒絶感なのだろう。
群馬県大泉町は北関東最大の工業地帯だ。ここでもたくさんのデカセギ日系人が働いている。今では5人に1人が外国人といった状況だ。彼らが来日した直後にバブル景気は崩壊した。
大泉町周辺の太田、足利、伊勢崎などの周辺都市に次々と大規模商業施設がオープンした。客を奪われ、地元商店街は閉店に追い込まれた。その店をブラジル人が借りて、にぎやかに新商店を開店する。
こうした町の変遷を背景に、「日系人は子どもをたくさん産んで税金を使う」「税金を払わない」とデマが広がった。さらには「日系人は生活保護を優先的に受給している」といったデマまで流れて、不況の元凶があたかもデカセギ日系人であるかのように見なされ、そして、「帰れ」という罵声が浴びせかけられた。
パンデミック、巨大地震、政治不信、不況、格差、「失われた三十年」――先行きの見えない不安に日本列島は覆われている。社会的不安を背景にヘイトは増大するばかりだ。
1990年代のデカセギ日系人とニューカマー、2000年代の在日コリアンに対するヘイト、そして現在のクルド人を取り巻く状況には共通点がある。
社会を覆う不安な状況の原因がマイノリティーにあると敵視して、まったく根拠のないデマを流す。そのデマに煽動されてヘイトスピーチが拡散し、ヘイトデモが行われる。マイノリティーを攻撃し溜飲を下げる「普通の人」たち。そこには差別される側への共感はいっさいない。自分の置かれている状況は何一つ変わらないのに、悪意に満ちたヘイトを止めようとはしない。もはやエンターテインメント化しているのだ。
戦後、ブラジルの日系社会は日本が戦争に勝ったという情報を信じた勝ち組と、負けたと認識する負け組とに分かれ、激しく対立した。1970年代、私がブラジルのサンパウロで日本語新聞記者をやっていた当時は、すでに収束はしていたが、「勝ち組/負け組」の抗争の根は深かった。
戦前、日本語新聞の発行は禁止され、移民は午前7時から放送される日本からの短波放送を隠れて聞いていた。8月15日の敗戦。いつもなら大本営発表の華々しい戦果が聞こえてくるはずなのに、その日はほとんど聞き取れない「玉音放送」が流れた。
ポツダム宣言受諾を告げるこの放送を「日本が勝った」というふうに聞いた、あるいは聞こえてしまった移民もいた。日章旗を主翼に描いた飛行機がブラジル上空を飛んだという目撃証言まで終戦直後のブラジルには流れた。
その一方で、ポルトガル語のブラジル新聞を読み、戦争の成り行きを把握していた移民もいた。彼らは心を傷めながらも当然敗戦の事実を知った。
しかし、日本が勝った、勝っていてほしい、負けるはずがないという心情は、無条件降伏のニュースはアメリカの陰謀とするデマを生み出した。真実は日本の勝利という鮮やかな蜃気楼が日系社会に映し出された。日本の勝利というデマに多くの移民が熱狂した。
「日本軍艦ハ四十五隻ト四十八隻、二回ニ渉リパナマ運河ヲ通過セリ」「日本軍、ロッキー山脈進行中」
荒唐無稽なニュースが日系社会に流れた。多くの日系人がそれを真実だと思い込んだ。
不安に覆われた状況下では予想もしないデマが生まれる。そのデマが、心の中で肥大化する恐れを麻痺させてくれる。デマに同調しない者はヘイトの対象となる。真実を伝えようとした負け組の中から、勝ち組のテロによって二十人以上の犠牲者が出た。
戦後まもない頃のブラジル日系社会の状況と、現在の日本は相似形のように見える。デマに熱狂したのは特別な人などではなく、普通の移民なのだ。日系社会の九割が勝ち組だったといわれている。
もう一つ、デマは金を生むという点だ。戦後の日系社会では、日本が勝ったというガリ版刷りの情報が高く売れ、日本が勝ったと吹聴して講演料を巻き上げる者や、勝ち組を相手に、敗戦によって紙クズ同然となった日本円を高く売りつけるなど、さまざまな詐欺師が暗躍した。
デマやヘイトをまき散らしてフォロワー数を増やし、「クルドカー」と称して積載量オーバーの動画をアップし、クルドの幼い子どもを万引き犯に仕立てた動画をYouTubeで流してアクセス数を稼ぐ。私には戦後のブラジルの日系社会に暗躍したイカサマ師と同じに思える。
関東大震災が起きる五年前、1918年に米騒動が起きた。1919年にはソウルで三・一運動が起き、朝鮮独立の動きは朝鮮全土に広がる勢いを見せた。第一次世界大戦によって、日本は輸出額が伸び、内需によって好景気が訪れたが、終戦にともない1920年には戦後恐慌にみまわれた。暗い世相のなか、関東大震災が発生し、朝鮮人虐殺が起きた。デマはヘイトにつながり、そして狂気に満ちたテロへと直結する。
それが今起きないとも限らない。川崎から川口、蕨へとヘイトは拡大している。その先に群馬県館林市がある。ここにはやはりミャンマーを追われたロヒンギャが200人ほど暮らしている。隣接する大泉町の人口約4万人、そのうち外国人は約9000人。大泉町がターゲットにならないとはいえない。
ヘイトスピーチは、表現の自由、言論の自由でなどでは決してない。人を死に追いやる犯罪でしかない。地方自治体の条例だけで取り締まるには限界がある。ヘイトスピーチ解消法に止まらず、すべての差別を撲滅する実効性のある差別禁止法の制定が必要ではないだろうか。
(了)

たかはし・ゆきはる 1950年埼玉県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。大学卒業後、ブラジルへ移住。1975年から三年間、サンパウロで発行されている邦字新聞パウリスタ新聞社(現・ブラジル日報)勤務。1978年に帰国後、ノンフィクションを執筆。2000年からは麻野涼のペンネームで小説も執筆している。1987年、『カリブ海の「楽園」』で第6回潮ノンフィクション賞受賞。1991年、『蒼氓の大地』で第13回講談社ノンフィクション賞受賞。日系移民の歴史、在日外国人問題、臓器移植など幅広いテーマで執筆している。
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