【ジャーナル】戦後史探検──昭和20年代を歩く 第40回◎三山喬 トキワ荘と戦後マンガ(上) 

若きマンガ家たちの梁山泊 

 昭和二十九(1954)年、マンガ家を志すふたりの青年が富山県から上京した。挨拶に訪れた出版社から編集者に連れて来られたのは、池袋に近い住宅密集地。そこには木造モルタル二階建てアパートが建っていた。 
「ふたりが玄関に入った時、ある不思議な感情に襲われた!」 
「このアパートへは生まれて初めてきたのに、ずーっと昔、ここに住んでいたような、なんともいえない親しみとなつかしさを感じたのだった!」 
 学生服姿で描かれたふたり組の動きには、ひとコマずつそんなナレーションふうの「ふきだし」が付く。ギシギシときしむ音を立てながら編集者は二階へと彼らを導いてゆく。 
「階段を上がりきったところにトイレ……」 
「その横は共同の台所……」 
「そして、廊下をはさんで両側に部屋が九室あった!」 
 編集者が一室の引き戸をノックする。と、「ジャーン」という擬音とともにメガネとベレー帽の男性がひょっこり顔をのぞかせた。 
「やあきみたち、よくきたね」 
 主人公・満賀道雄と相棒の才野茂は一年前、兵庫県内のその自宅に押しかけて一度だけ会ってもらっていた手塚治虫との予期せぬ再会に驚き、感激した──。 

 マンガ家・藤子不二雄Ⓐ(作中では満賀道雄)による自伝的長編マンガ『まんが道』に描かれた「立志編」のワンシーンだ。 
 ふたりは手塚の退去後に彼のいた「14号室」とその隣室に入居した。やがてアパートは立て続けに上京する若きマンガ家たちの梁山泊と化す。藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫……。昭和三十年代に続々と人気マンガ家を輩出した「トキワ荘」の伝説は、このようにして始まった。 

2020年にかつてのトキワ荘を再現・完成したトキワ荘マンガミュージアム 
豊島区区制90周年記念事業特別企画展ポスター(2022年) 

 トキワ荘は戦後、豊島区椎名町五丁目(現在の住居表示では豊島区南長崎三丁目)にあったアパートで、1982年にいったんは解体されたのだが、2020年7月、地元住民らの要望で二百メートルほど離れた敷地に復元され、以来豊島区立トキワ荘マンガミュージアムとして地域起こしの中核施設となっている。 
 玄関から入った正面には『まんが道』にも描かれた二階への階段が、わざわざ踏めばきしむ音が鳴るように再現されていて、共同の台所には使い込んだガスコンロや鍋、食器類が雑然と並んでいる。 
 廊下の左右には四畳半の居室が計九室。時期的に出たり入ったりのずれがあるものの、左側は手前から手塚治虫(のちに藤子不二雄Ⓐ)、藤子・F・不二雄、赤塚不二夫、石ノ森章太郎、山内ジョージの部屋。右側は寺田ヒロオ、ひと部屋飛んで鈴木伸一(のちに森安なおや→よこたとくお)、そして水野英子の部屋として、仕事場兼住居の雰囲気が再現されている。 

トキワ荘マンガミュージアムに再現された石ノ森章太郎の部屋 

 一階は広いラウンジにトキワ荘作家たちのマンガ作品が陳列され、モニターで資料映像を視聴したり、トキワ荘のジオラマ模型を眺めたりできるようになっている。順路の最後にある一角には、トキワ荘の解体時に取り外した天井板の展示がある。そこには手塚治虫の筆になる『リボンの騎士』主人公サファイアと手塚自身の似顔絵が描かれている。 
「1982.12.1 五方面記者クラブのみなさんへ」 
 そんなサインも施されたこの板は、手塚から警視庁第五方面(豊島区・文京区を管轄)の記者クラブ(記者室は池袋警察署内)に寄贈されたもので、1982年、たまたま椎名町方面に食事に出た記者たちがトキワ荘の解体工事に目を留めて、手塚に確認をとったうえで記事にしたという。 

 実は三十数年前、私はこのサイン入り天井板を日々目にしていた。1991年から翌年にかけ、当時三十歳だった私は『朝日新聞』の社会部に所属、新宿署を中心とする第四方面と池袋の第五方面を掛け持ちで担当した。ちなみに同じ時期、共同通信の五方面担当は、その後独立して著名なジャーナリストとなる青木理であった。 
 同じ警察(サツ)回りでも、警視庁詰めの専門記者たちとは異なり、地方支局から社会部に来たばかりの若手記者が「方面回り」に割り振られる。事件事故の現場取材がないときは「街ダネ」と呼ばれる雑報を拾い歩く。〝マンガ界の聖地〟トキワ荘解体というニュースは、当事者の発表でなく街歩きで獲得したお手本のようなネタだった。とは言っても記者の入れ替わりが激しい持ち場のため、九年後の五方面担当だった私は、寄贈時のいきさつを何も知らぬまま、「いったいなぜ、ここにこんなモノが?」と訝しく眺めていただけだった。 

少年マンガが描いた正邪の物差し 

 今回私はなぜ、トキワ荘の話題を「戦後史探検」シリーズで扱おうと思ったのか。それはネット時代の殺伐とした「対立と分断」の世相を眺めたとき、社会にまだ相応の一体感があった過去の象徴は、私の世代だと1960~70年代、物心つくころの価値観の基礎となった少年マンガやテレビアニメの空気感ではなかったか。そんなふうに思ったためだった。 
 私は月刊『望星』での連載をベースにして八年前、『一寸のペンの虫 〝ブンヤ崩れ〟の見たメディア危機』(東海教育研究所)という本を書き上げた。直前に吹き荒れた政権や右派世論からの新聞・テレビ報道バッシングを受けてのものだったが、この本で私は自らを〝世直しを志向する正義漢とは別タイプのノンポリ記者〟と位置付けて、〝左右の極論は別として、保守からリベラル、革新まである程度の幅の主張は受容できていた〟と自分の感覚を説明した。 
 ところが「保守」の枠組みはいつしか従前とはまるで変っていた。昭和期なら自民党内の主流派・保守本流と見なされたスタンスさえ〝サヨク的〟と批判され、弱者への差別や歴史の改変を厭わない、いわゆる〝ネトウヨ的〟な人々が時の政権と一体化、リベラルな勢力を激しく攻撃した。 

 私はこんな言い方で、時代への失望を表現した。 
「『鉄腕アトム』や『ジャングル大帝』など幼い日に親しんだ手塚治虫作品のようなヒューマンな価値観は、遠い過去のものになってしまっている」 
 そう、「幼稚」と言われればそれまでだが、私にとって最もしっくり来る正邪の物差しは、やはり幼少期から親しんだ少年マンガの世界観なのだった。人種差別や戦争の美化はどうしても耐えられない。 
 もちろん私の幼少期も〝対立と分断〟は厳然と存在した。共産主義の影響がまだ大きかったぶん、思想的な対立には現在より激しかった面もある。それでもいま思えば、そのころの保革対立はあくまで政治的主張の違いに留まって、極左・極右の過激派でもない限り、互いの人間性まで否定する断絶ではなかったように思う。 

 本シリーズの初回で取り上げた田中角栄首相の有名な警句、「戦争を知っている世代が政治の中枢にいるうちは心配ない。平和について議論する必要もない。だが戦争を知らない世代が政治の中枢になった時はとても危ない」を思い起こすとわかりやすい。 
 戦争の惨禍を経て焼け野原に立ち尽くした──。国民の多くがそんな体験を共有した時代には、さまざまな政治的意見とは別に〝人として〟抱く感情、戦争に対する「二度とご免だ」という忌避感は大半の人に重なり合っていた。そのことは本シリーズで数多く話を聞いてきた戦中派の人々にも感じられた。 
〝左右の重なり〟は反戦だけではない。権力をかさに着た横暴さや弱者を追い詰める嗜虐性、そういったことへの嫌悪や反感は、主義主張とは関係ない庶民の素朴な思いだった。マンガや時代劇の悪役設定を誰もが素直に受け入れた。醜悪な人間、卑怯な人間は現実には多々いたが、そういった人格を好むと公言する人はまれだった。 

 しかしネット時代になり、正邪の感覚での逆張りが急増した。不公正や差別を批判する真っ当な主張に「いい子ぶるな」と悪罵が殺到する。近年のそんな風潮を、少なからぬ人々が認識した。 
 先に触れた青木理は今でこそ、左派リベラルのオピニオンリーダーと見なされるが、90年代の彼は私と変わらないノンポリ記者だった。TBSの報道番組で厳しく政権批判をした岸井成格(故人)も『毎日新聞』にいた時代は、むしろ保守寄りの政治部記者だった。写真誌『FOCUS』や日本テレビに所属して、桶川ストーカー事件などの真相を究明した調査報道の第一人者・清水潔も十年ほど前までは、Ⅹ(旧ツイッター)で政治的発信をほとんどせず、現在の姿勢とはまるで違っていた。 
 戦争体験世代の著名人もそう。菅原文太や大橋巨泉、愛川欽也など何人もの人が最晩年になり、次世代に遺言を残すかのように政治的発言をするようになった。みな元々は論争的な人ではなかったが、あまりに劣化する世相の変容を〝見るに見かねて〟モノを言うようになったのだ。 

手塚治虫の予言 

 その一方、昭和を代表する手塚のマンガ作品を政治的な文脈で引き合いに出すことには従来から賛否両論の主張がある。そしてその双方の立場から何冊もの本が出されている。「マンガの神様」と呼ばれる手塚の功績は、万人が認めるところだが、そのメッセージ性を「反戦やヒューマニズム」と受け止めることについて、「一面的すぎる」という異論も聞かれるのだ。 
 手塚自身1985年ごろ、音楽評論家・渋谷陽一のインタビューを受けた際、「ヒューマニズムっていうのはね……本当にもう、耳ふさぎたいんです(略)。ヒューマニズムっていうのは、僕にとって砂糖、オブラートなんです」と漏らしたと伝えられている。本来はもっとドロドロした本音を描きたいが、(商売上のリスクを考えると)実際には踏み切れないのだと。 
 かと思えば、著書『手塚治虫の漫画の描き方』には、こんな記述もある。 

マンガを描くうえで、これだけは絶対に守らねばならぬことがある。 
それは、基本的人権だ。 
どんなに痛烈な、どぎつい問題をマンガで訴えてもいいのだが、基本的人権だけは、断じて茶化してはならない。 
それは、 
一、戦争や災害の犠牲者をからかうようなこと。 
一、特定の職業を見くだすようなこと。 
一、民族や、国民、そして大衆をばかにするようなこと。 
この三つだけは、どんな場合にどんなマンガを描こうと、必ず守ってもらいたい。 

 ここで留意しなくてはならないのは、手塚が1989(平成元)年二月九日、昭和の終焉より約一ヵ月遅れで世を去ったことだ。時代はまだ東西冷戦期、ベルリンの壁の崩壊はこの年の十一月に起こることだ。日本のバブル経済もピークはまだ迎えてはいない。Windows95の発売を契機にインターネットが広まって、その人口普及率が五割を超えるのは、彼の死から十三年を経た2002年になってのことだった。 
 つまり手塚の念頭にある政治的対立は、あくまでも冷戦期、保革の枠組みでのものだった。民主主義や人権についてさえ異論が百出し、その価値を認めない人が増えようとは、さすがに想定できなかっただろう。ヒューマニストというレッテルを嫌う発言も、公然とアンチ・ヒューマニズムの言説が飛び交う未来を知ったならどうだったろう。果たして同じ言い方をしただろうか。改めて彼の早逝が残念に思われる。 

 ちなみに〝未来社会の予見〟という点で言えば、さすがは『鉄腕アトム』等々のSF作品を生み出してきた手塚である。最晩年、石ノ森章太郎との対談をしたときに驚くべき発言を残している。戦争の惨禍によりフランスや日本の映画に大きな革新が起きたように、マンガの現状を飛躍的に打破するには、社会が崖っぷちに立つような危機が訪れた方がいいのかもしれない。そんな〝暴論〟を語ったあと、大災害の勃発や、森林(紙)資源の枯渇などを例示して、こう続けたのだ。 

手塚 もうひとつは、出版産業そのものが崩壊するという、これは全然別のアクシデント。もっと違うメディアが世界を席巻する。テレビなんかは時代遅れで、もっと別のメディア。そうすると出版なんていうのは、活字文化とか、印刷文化とかいうのは自己崩壊してしまう。そういうことも起こり得ると思うんです。 
石ノ森 たしかにあり得ますね。 
手塚 何が起こるかわからないというのは、これからたかだか十年ちょっとのあいだだけれど、いまの文化の進展のスピードからいくと、本当に何が起きてもおかしくないんですね。これから世紀末にかけての十数年というのは、四十年くらいに相当すると思います。日本の戦後の四十年間を、十数年でやるわけですから(略)。マンガが昨日まで栄えていたのが、明日からマンガが出なくなるという事態になるかもわからない。そういうときに初めてマンガは目覚めて、われわれは何をなすべきかと。

(『手塚治虫対談集3』) 

 これはまるで、インターネット時代の到来とその甚大なる影響を予言した言葉に読めてしまう。「十数年後」という時期の予測もどんぴしゃりだった。 
 ともあれ、手塚治虫やトキワ荘作家たちが戦後、数々の作品で描き出した世界には、同時代的な当人らの意識がどうであったにせよ、いまから見て世相の変貌を如実に感じさせる価値があることは間違いない。この「トキワ荘と戦後マンガ」の記事では、そんな七十年前の若き才能の心情と現代の私たち読み手側の感覚の双方から、この間の歳月を考えたい。 

 手前に広々とした空間があり、その奥まった場所にマンガミュージアムが建っているトキワ荘公園。「最初はその公園入口に2009年、モニュメントがひとつ出来ただけでした」。そう言って十人のトキワ荘作家による色紙のような銘板をはめ込んだ記念碑について、地元トキワ荘商店街の会長・小出幹雄は説明した。 
 そもそもトキワ荘にまつわる歴史顕彰運動のきっかけは、1999年に記念館設立を要望する署名活動が、一部有志の手で行われたことだった。あいにく、このときの運動は成果を得られずに終わったが、2007年になり池袋の区立中央図書館に「トキワ荘コーナー」が設置され、それ以降、トキワ荘商店街(旧・南長崎ニコニコ商店街)と隣接する目白通り二又商店会による関連プロジェクトが一気に動き出したという。現在はマンガミュージアムだけでなくその周囲にトキワ荘通り昭和レトロ館(区立昭和歴史記念館)や、作品を読めるマンガステーション、お休み処などさまざまな施設が建ち並ぶ。『まんが道』に登場する町中華の老舗「松葉」にもファンが連日訪れる。 

2009年、トキワ荘をめぐる豊島区の最初の事業として設置されたモニュメント「トキワ荘のヒーローたち」 

 私とほぼ同世代(正確には1957年生まれで私の四歳上)の小出は、トキワ荘公園に隣接する時計店の二代目だが、物心ついたころにはトキワ荘作家はみな転出、彼らの伝説も知らないまま育っていて、自身の地元にそんな〝聖地〟が存在したと知ったのはアパートの解体後、ドキュメンタリー番組などを見てのことだったという。 
 関連作家たちのマンガ作品や文献を読み込むようになったのはそれ以降、地域起こしに取り組むようになってということだが、「現代の殺伐とした世相とは対極的なヒューマンな価値観が当時のマンガ作品には溢れていた」という私の感覚を伝えると、やはり年齢が近いせいだろうか「おっしゃることはよくわかります」と同意してくれた。 

(つづく) 

三山 喬

みやま・たかし 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。朝日新聞学芸部、同社会部記者を経てフリーに。2000年から06年にかけ、ペルーを拠点として南米諸国のルポルタージュ記事を各誌に発表。帰国後、ルポやドキュメントの取材・執筆で活躍している。著書に『日本から一番遠いニッポン――南米同胞百年目の消息』(東海教育研究所)、『さまよえる町――フクシマ曝心地の「心の声」を追って』(東海教育研究所)『ホームレス歌人のいた冬』(東海教育研究所、のち文春文庫)、『夢を喰らう――キネマの怪人・古海卓二』(筑摩書房)、『国権と島と涙――沖縄の抗う民意を探る』(朝日新聞出版)、『一寸のペンの虫――〝ブンヤ崩れ〟の見たメディア危機』(東海教育研究所)などがある。

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