AIの活用が当たり前になる時代、知識は外付けになる。問えば瞬時に答えてくれる端末を常備しているのだから、覚えること、記憶することの重要性は薄れる。ではなにが重要になるのか? 端末で得た知識を基に、自ら考え、咀嚼して、自分の言葉で話す。そして周囲と議論をし、さらに自分の考えをバージョンアップしていく――こうした力を身につけるのを手助けするのが、これからの教育の役割ではないか。生命科学者、そしてご隠居として各方面で活躍される仲野徹さんに語ってもらった。
AIが「教育」をガラリと変える
――仲野さんは大阪大学医学部で医学教育にも携わっていました。教育に関して、どのような実感をお持ちですか?
これからの教育を考えると、もう変えざるを得ないでしょうね。というか、AIの登場で、百パーセント間違いなく変えなければならない。遠からず、個別教科はAIが教えるようになるでしょうし、子どもそれぞれの学習段階に応じてAIが個別指導することも、あっという間に実現可能になると思います。実際に導入されるかどうかは別として、ですが。
これまでの教育では、何を教えてきたかというと「知識」なんです。知識はこれからも当然必要ですけど、AIの登場で、覚えること自体は必要なくなっていくでしょう。医学教育などは典型的です。もうすでに情報量や知識量が飽和状態となっていて、明らかに覚えきれなくなっている。けれどコンピュータに聞けば、瞬時に教えてくれるわけですから、懸命になって覚える必要がなくなっていきます。そうなれば試験なども、タブレットの持ち込みを許可して、タブレットを駆使しただけでは答えられない問題を用意すればいいのです。膨大な専門用語などは覚えてもあまり意味がない――そうなっていくと思います。すでにAIが国家試験に合格できるレベルなんですからね。
知識を外付けできるようになると、当然教え方も変わっていきます。教えることに費やす時間も減らせますから、教員数も見直され、教員は減ってしまうかもしれない。これから、先生は大変だと思いますね。
――教員がやってきたことをAIが代替するとなると、教師の仕事の内容も変わっていきますね。
小学校・中学校の先生は、児童や生徒に知識を教えるための方法論や指導技術をすごく真面目に学び、身につけてこられたわけです。でも知識を覚えることがAIの登場によって必要なくなっていきますから、教師として学んできたことをいったん白紙にして、教師の役割を見直す、あるいは百八十度変わることを認識できるかどうかが重要になっていくはずです。思うに、教える手間が少なくなっていくのですから、クラスや学校、教師の役割は何なのかと、発想を変えていかなければならないでしょう。たとえば、みんなで課題を見つける、課題解決のために協調する、利他的に行動する。そういったことを学んでいくのが学校だとなれば、深刻ないじめの問題も少しは解消に向かっていくと思いますよ。
――教える必要のある知識と、教える必要のない知識も明確に分かれていきそうです。
知識は外付けできる時代になったわけですから、最低限どれぐらいの知識が必要かといったミニマムリクワイアメント(※)を見据えて教えることが大事になるでしょう。何も知らなかったら考えることはできませんから、考えるための知識は必要です。そのうえで、知識を展開する能力を持つことが大切になってくる。何よりも変化に対処できる能力を身につけるべきと、よく言われますが、そうであるならリベラルアーツのようにいろいろなことを幅広く学び、何かあったときに臨機応変に変わることができる能力を身につけさせるのが教育かなという気がします。
それから、AIの時代になっていくからこそ、民主主義とは何か、進化とは何か、資本主義とは何かなど、絶対に間違えてはいけない概念や変わらない普遍的な原理を繰り返しきちんと教えていく。各分野で根源的な原理や概念があると思いますので、それをしっかり教えて、さらに枝葉をつけて考えていく能力を育てる。そうしたことがすごく大事になると思います。
※ミニマムリクワイアメント 教育や専門分野で獲得すべき知識の基準 。
記憶とパターン認識ばっかりではダメ
阪大で医学生に教えていたとき、試験は穴埋め問題にしてました。正解2点、何も書いてなかったら0点、間違えたら-1点の設定です。-1点という減点法は学生からは無茶苦茶イヤがられて、本当に不評だったんですけれど(笑)、しっかりした理由があります。
今の学生たちは高校や予備校で、「マグレで当たるかもしれないから間違えてもいいので何か書け」と言われて育っている。そうした教育を小さいときから受けていると、間違えた答えを間違えたままにしておきかねない。これからの世の中でいちばん困るのは、おそらく誤った知識のまま覚えていることやと思うんです。わからなかったりあやふやだったらすぐに調べられるのに、自分で正しいと思い込んでいたら調べない、これが一番ダメ。
間違えた答えは-2点にしてもええくらいですよ。学生たちには、正解2点、何も書いてなかったら0点、間違えたら-1点と、繰り返し言っているにもかかわらず、トータルでマイナス点を取るやつが出てきたりするんですわ。アホとしか言いようがありません(笑)。
――日本の教育は大学受験を最終ゴールにしているようなところがありますから、「まぐれ当たりでいいから点数をとっていけ」にもなるだろうなと思います。
まさにそう思います。受験のシステムがやっぱり悪いんでしょう。阪大医学部でも、医学部受験のために小学校四年生くらいから塾に通い、受験勉強してきた子がマジョリティです。指導要綱が変わって入試の出題範囲は多少変更されても、実際はそれほど大きく変わっているわけではない。言ってみれば、大学受験の問題なんか出し尽くされているわけです。だから記憶とパターン認識でなんとかなってしまう。若い頃にそればっかりやってたらあきませんよね。単に「大学入試が得意な勉強家」になるだけです。
――記憶などもAIがいくらでもやってくれますし。
パターン認識もしてくれます。どちらもAIが得意とするところで、そんなものばかりで競わせてもAIに負けるんやから意味がない。受験は、要領の良さと頭の良さと我慢強さの掛け算みたいなところがあったのですが、要領の良さについては、予備校が「あんたここが苦手やから、ここ勉強しなさい」と指導してくれる。そんなふうにしてきたから、勉強する方法を知らない子がけっこういてるんですよ。「どうやって勉強していいかわからない」と泣きついてきた子がいました。そんなこと聞かれても困りますわな(笑)。
――記憶とパターン認識だけでやってきて、めでたく阪大に合格した段階で目的は達してしまっている。本来はそこから大きく伸びて、よき学者、よき医師になってもらわないといけないのですが。
彼らは小学四年生から大学に入るまで十年ぐらい勉強をしてますから、ある意味で疲れているんでしょう。燃え尽きちゃっている子も二~三割はいます。百人いたら二~三十人は勉強しない子が出てきますから。優秀な子もたくさんいるのですけど、かなり残念なことです。大学に入ってからが勉強やのに。
合格=クリアのようにゲーム感覚で受験に取り組んでいるんでしょうけど、入試に合格したところで、そんなものはつまらないゲームでの小さな勝利に過ぎません。多くの人がそこにとらわれ過ぎですわ。
でも、どうしたらいいか? 悲しいことに、僕もわかりません。アメリカのように入学は緩くして、試験で縛ればいいと言いますけど、日本の場合は大学のシステムがそうなっていませんから、いまさら変えるのはほとんど不可能ではないかと思います。
とはいえ、ひとつ言えるのは、記憶とパターン認識だけの試験は明らかに最悪になっていくということ。今まではある程度は必要で、記憶とパターン認識から何かを決断することも大事だったのですが、この先、生成AIの時代には必要なくなっていきます。やっぱり根本的に考え直さないとダメなんじゃないでしょうか。
変わり者がいなくなった?
――教育改革の成功例として、よくあがるのがフィンランドで、日本もフィンランド型の教育を目指すべきといった声は結構耳にします。
日本でもフィンランドの中学校の教科書が翻訳されていて、化学と生物の教科書を見たことがありますけど、本当によくできてます。もちろん知識を教えてはいるのですが、勉強のための教科書というより、将来生活するときに役立つことを目指した教科書なんです。生きるための勉強になってて、ちょっとびっくりしました。
――一見すると何の教科書かわからない。たとえば町へ買い物に行って、そこでお金の問題を学んだり、休みの日はキノコ採りに行って、食べていいキノコとそうでないキノコを知ったり。自転車でどこかに行くという設定で自転車の構造が出てきたりする。
そういう勉強の仕方なら、子どもも楽しいでしょう。やりがいもあるし。自由に学ばせるときに何を学ばせるかについては、極端な話として、自分に興味のあることだけをやらせたらええという意見もあります。ただそれはそれで、必要最低限の知識を身につけさせるというところから考えると、ちょっとどうかという気もしますけど。
――将棋の藤井聡太名人は、好きなことだけをずっとやってきたわけですけれど、同時に社会への関心も持っていて、新聞を読み、本を読んで、知識を広げている。だから、いろいろなことを知っています。
そういう特殊な人を見て教育を考えるのはダメですよ、特別すぎる(笑)。
――でも、「この人たちに学べ」と言われる過去の偉人たちは、ちょっと特殊な人が多いですよね。北里柴三郎など、かなり特殊な人じゃないですか?
北里はけっこう特殊です。あの人は、いわゆるエリートコースではなかったけれど、能力は高かったし、むちゃくちゃ賢かった。それにオリジナリティーのある人でした。
明治から大正は、時代的にも、ちょっと外れてるぐらいの人を受け入れる余地があったように思います。初めて日本で発がん実験をした山極勝三郎もかなり変わってたと思いますよ。読んだ本によると、「絶対安静にしとけ」言われて、一日中天井見て、ほんとにじっと気をつけをして寝てたって書いてありました。当時の社会には、そういう人を受け入れられるような懐の深さがあったんでしょう。今は協調性とかが重んじられるようになり過ぎた。医学者でも、まともな人が増え過ぎましたね。おもろないわ(笑)。
五十年前ぐらいになりますが、阪大医学部に垣内史朗先生という方がおられたんです。垣内先生、大学に半ズボンで来ておられましたからね。テンガロンハットをかぶってきたこともあって、いやもう感動しました(笑)。それもノーベル賞候補レベルの研究者。今ならありえるかもしれませんが、当時としてはまったく異質でした。おそらく僕らがマッドサイエンティストを見た最後の世代じゃないかと思います。
――そういう人がいなくなった?
ほんとにいなくなりました。変わった人はいてるけど、ちっさい変わり方でしかない。私のような常識人でも変わってると言われるくらいですから(笑)。僕から言わせてもらうと、そもそも大学には研究だけが好きな人が多過ぎるんです。せやからあかんのですよ。それこそ教育上よろしくない。「頭はええけど、どこか使い方まちごうてるやろ」っていう人が結構おられますから。
イギリスやアメリカには、一流の医学者で文章もうまく、一般向けの優れた本を書く人が結構います。でも日本ではほとんどおられません。それこそ教育システムの違いで、小さい頃にどれだけ遊んだかとか、研究者になってからもどれだけいろいろなことを経験しているかが違うんでしょう。ドイツ人の僕の師匠は、毎年、夏休みをしっかり四週間とってましたけれど、研究以外のことを楽しむ経験がやっぱりいろいろなことに活きて、実験のアイデアに繋がってたと思います。「日本の大学はダメ」と言われているのも、そこに理由があるんじゃないでしょうかね。みんな小さくまとまって、狭い世間の中で真面目にやり過ぎ。
「ノーベル賞受賞者から学べ」は間違い?
――日本からは毎年のように理系の分野でノーベル賞受賞者が出ますけれど、インタビューなどを聞いていると、子ども時代にたくさん遊んでいた人も多い。
今ノーベル賞をもらう人くらいの世代は、みんな子どものころには遊んではったと思いますよ。中学受験なんて盛んじゃなかったし、そんなに勉強しなくてよかったですから。
ノーベル賞受賞者は公立高校出身者が多いと言われています。これも時代かもしれません。公立高校といっても多くは地元のトップ校ですけれど。私学の出身は同志社高校の江崎玲於奈さんと、灘高校の野依良治さんぐらいでしょうか。
――京都大学出身の方も多いですね。
京大出身の本庶佑先生は師匠ですし、去年ノーベル賞をとられた坂口志文先生、北川進先生も存じ上げてます。僭越ですが、本庶先生はめちゃくちゃ賢いです。坂口先生や北川先生も当然賢い。ただ北川先生は、自分でもおっしゃってましたが、普通のおっちゃんです(笑)。
京都大学出身からノーベル賞受賞者が多いのは、よく言われるように、変わった人を受け入れる風土があったからじゃないでしょうか。ノーベル賞をとられた先生が変わってるって意味じゃないですよ(笑)。ベースとして京大が培ってきた学風というものがあると思います。
一昔前は百万遍(※)あたりを歩いてたら、なんだかおかしな雰囲気の人たちがどんどん京大のキャンパスに吸い込まれていく。みんなが京大関係者かどうかはわかりませんけど、やっぱり変わった人が多いんかなぁという印象でした。それと比べて阪大病院前のモノレール駅で見てたら、まともなそうな人ばっかりしかいてない。「これは勝ち目ないわ」と思います(笑)。
それはさておき、ノーベル賞受賞者は確かに賢いのですが、賢さにはいくつものパターンがあります。賢さの「絶対値」でいえば、もっと賢い人はいくらでもいそうですが、ノーベル賞をとるというのはちょっと特殊な能力が必要だし、運も多分にある。ですから「ノーベル賞受賞者から学べ」は、必ずしも正しくないと思ってるんです。
いうたら大谷翔平のように野球の練習せえ言うようなもんですわ。藤井聡太の棋譜だけを見て将棋を練習するというてもええかな。こう喩えると、なんだか間違えてるような気がしてくるでしょう? あまりに特殊な例から学ぼうとし過ぎるとおかしくなる、というのはあると思うんですよ。そんなことないですかね。
※百万遍 京大のお膝元の学生街。
教えられ上手がこれからはお得
――日本の学校教育は、明治以降百五十年間変わっていない。制度が疲弊して、機能不全を起こしているとの指摘もあります。
明治時代は国力を底上げするため、同じような型にはめる教育が必要だったのでしょう。いろいろな才能が伸び出すのは十歳ぐらいからと言われていますが、その時期にみんな同じことをして、同じような学力、というより単なる記憶とパターン認識力をつけていこうとするのは、かえって能力を潰してしまうんじゃないかと思います。
僕が好きな話なのですが、柔道の嘉納治五郎、剣術の千葉周作、合気道の植芝盛平など、昔武道の達人がいましたよね。そういう人たちが柔術、剣術、合気道を教えるためにマニュアル化をする。マニュアル化すると、誰もがある程度のところまではいけるようになる。そのかわり達人が出なくなる。とんでもない人が出てこなくなるという考えです。
もうひとつ、エッセイを書くときによく引用する話ですが、大リーグの平均打率は十年ぐらい前までずっと右肩上がりだったんです。ところが4割打者は、1941年にボストン・レッドソックスのテッド・ウィリアムズが4割6厘を打って以降、一人もいない。平均打率が上がっているにもかかわらず、4割打者が出ていないなんておかしいでしょ?
これは、平均値が上がると、標準偏差が小さくなる。極端な人が減っていくという考えで説明できます。平均値が上がることによって突出した人が出てこなくなる。日本でビル・ゲイツみたいな人が出ないのは、猫も杓子も大学入試の点数を上げることばかりを目指すからではないかと。同質性が重んじられ、突出した人が受け入れられにくいというのもあるかもしれません。
――日本の教育はどうなっていくといいんでしょうね。
ウェルビーイングという言葉はあまり好きではないのですが、より良く生きて、幸せになれるような術を身につけさせるのが教育の最大の目的になるべきですよね。
医学部で教えていたとき、最初の講義で伝えていた言葉が二つあります。ひとつはアインシュタインの言葉で、「学校で学んだことをすべて忘れた後に残るのが教育である」。もうひとつが、東大全共闘議長だった山本義隆の、「勉強するというのは、専門であろうが専門外であろうが、自分の頭で考えて、自分の言葉で語れるようになること。そのために勉強するのです」――まさに、その通りだと思いますね。
記憶とパターン認識だけやってきても、あかんということです。知識は外付けの知識でも何でもいいのですが、得た知識から自分の頭で考えて、自分で咀嚼して、AIが相手でも人間相手でも、自分の言葉で話す。言葉にして話せば相手から何かしら返ってきます。それを踏まえた上で、自分の考えをバージョンアップしていく。これはAI時代になっても十分通用するだけでなく、必要なはずです。
――となると教える側だけでなく、学ぶ側も変わっていく必要がありますね。
思想家の内田樹先生がよくおっしゃいますけど、「教えられ上手」がこれからはお得かもしれません。いろいろなところから素直に学べる能力を身につけられたら強いんじゃないでしょうか。たとえば、これも内田先生が『先生はえらい』(ちくまプリマー新書)に書いているように、「この人は私の師匠や」と思った人を勝手に師匠にしてついていってもいい。それに、生成AIを使えばいくらでも自分で勉強できる。AIなら、いつでもどこでも学べるし、生身の先生と違ってキレることもなく親切に教えてくれますから(笑)。
(了)
■聞き手・文 八木沢由香

なかの・とおる 1957年、大阪生まれ。元・大阪大学医学系研究科/生命機能研究科・病理学教授。現在は隠居。著書や共著、書籍の監修や監訳も多数。近著に『仲野教授の この座右の銘が効きまっせ!』(ミシマ社)などがある。

