【連載】ライター稼業渡世日記 ──出会った人びと 歩いた街々◎岡崎武志 第4回

1990年、三十三歳のとき、もの書きを目指し一念発起して上京。 
暴挙、愚挙、無謀だったかもしれませんが、以来、見事に文筆家として暮らしてきた岡崎武志さん。
そのライター稼業とは、どのような歩みだったのか?  
出会った人、歩いた街、関わった雑誌や本を通して、見えてくる時代……。 

教科書にもマンガを描いたゾ

 1990年春に上京し(埼玉県だったが)、家具を並べ、本棚を設置し、本を並べるところまで済ませた。越してしばらく、朝起きたとき、一瞬ここがどこかわからなくなることがあった。チカチカと頭の中が点滅し、霧が晴れたように、「そうか、もうここは大阪じゃないのだ」と認識する。その混乱はけっして不愉快ではない。季節も春だった。 

 大阪から持ってきた荷物の中に愛用のフォークギターもあった。「YAMAHA N500」は中島みゆきモデルと呼ばれた名器で、大学時代に京都の中古楽器店で買い、ずっと弾き続けてきた。東京へ来て、東京の歌を唄う。そのことも新鮮だったのである。 

 しばらく、毎日のように歌っていたのがフォークデュオ「風」の『東京1975』。ファーストアルバムに収録。作詞・伊勢正三、作曲・大久保一久でボーカルも大久保だった。歌詞を引用すると面倒なことになる。要するに、東京で一人暮らしする若者が、後年そのことを懐かしむという内容である。上京した若者かどうかはわからぬが、私はそう受け取って自分の心情を重ねていた。 

愛用の「YAMAHA N500」。名器である 

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 上京の導火線に火をつけた一つに「マンガ」があったと前回書いたが、いろいろ思い出してきた。故・瀬戸川猛資さんも恩人の一人で、ミステリ評論家として『夜明けの睡魔』ほか華々しい活躍をされ、丸谷才一が絶賛する書き手であった。 1999年に五十歳という若さで死去。言葉を失った。
 一方で瀬戸川さんはトパーズプレスという個人出版社を運営。『BOOKMAN』(1982年創刊)というマニアックな読書家向けの雑誌も編集していた。「岩波文庫」「新書」「東京の古本屋」(特集タイトルではなくテーマ)などを特集し、私も関西在住時代から愛読していた。 

 検索すると1990年の発行となる「よくわかる現代詩」という特集号で、現代詩人カタログとして代表的な現代詩人の似顔絵つき紹介を私が担当した。書いたのは1989年、大阪にいる頃だと思う。どこからこんな仕事が来たのか。荒川洋治さんが紹介してくれたのか。 
 これも原稿料をもらっての仕事であった。うれしかったからどこかに雑誌を保存しているはずだが、今は見つからぬ。文章も書いたが、マンガ(似顔絵)付きで、文章だけだと私に依頼はなかったと思われる。「マンガ」が身を助けた一例だ。 

 掲載誌の『BOOKMAN』を探していて見つかったのが三省堂の『高等学校 国語科 現代文』という教科書。天野祐吉「言文一緒の時代」が「評論」の単元で掲載されているが、ここにタレントや人気作家が多数登場する。その幾人かの似顔絵を描いてくれ、というので引き受けた。鈴木志郎康さん主宰の同人誌『飾粽』同人に編集者の渡辺洋さんがいて、歳も近く仲良くさせてもらっていた。のち朝日出版社へ移るが、私が知り合った当時は三省堂(小売書店ではなく出版社のほう)にいて、これははっきり渡辺さんから依頼された仕事だ。 

 ビートたけし、タモリ、オスマン・サンコン、マリリン・モンロー、橋本治、椎名誠の六人の似顔絵を描いた。たぶんだが、編集の最終段階で肖像写真の手配が間に合わなかったか、あるいは別のイラストレーターを頼んで断られたのではないか。というのも、依頼を受けて、いついつの締め切りというのではなく、すぐに編集部へ来てその場で描いてくれとのことだった。無茶ぶりではあったが、喜んで引き受けた。 
 会議室のようなところで、人物の写真素材やケント紙などは用意されていたと思う。一人につき一点ではなく、いくつかパターンや大きさを変えて描いたように思う。ギャラの額は忘れたが、「それはいくら何でも」と失望するほどではなかったと思う。だいいち所要時間はせいぜい二時間ぐらい。ただし教科書とあって、緊張と集中は並外れたものとなり、終わるとクタクタになった。これも大阪にいては廻ってこない仕事であろう。 

 イラストを描いたのは1991年か92年ごろ。教科書採択があって翌年から使われただろうか。当時この教科書を使った高校生たちは現在五十代。いつか、そんな人たちと巡り合いたいものだ。「覚えてる? 天野祐吉の文章。タモリやたけしが出てくるやつ」「ええ、覚えてますよ」「あのマンガ描いたのは、じつはオレやねん」「!!!!!!」 。

 三省堂とは縁が切れず、このマンガをきっかけに、教師向けに配布される小冊子に文章とマンガを連載することになる。これは気づいた人がいて、かつての同僚から「これ、岡崎さんやろ、こんなことやってるの」と興奮の電話をもらった。人生、思いがけないサプライズが連鎖していく。 

『産経新聞』無署名書評

『BOOKMAN』に執筆したことも、太平洋ひとりぼっちと思えた東京生活での小さなつながりで、瀬戸川さんに連絡を取り挨拶に行った。会うのは初めて。上京した、と告げると驚いていたが、事情を聞いて「じゃあ、とりあえず『産経新聞』の書評の仕事を回しますよ」と言ってくれた。瀬戸川さんも書き手としてはまだ当時無名で、『産経新聞』のある週の短評欄(無署名で六百字ぐらい)を請け負っておられた。そのうちの一本を私が書かせてもらえることになった。無署名の短評とはいえ、いきなり大新聞の執筆である。これは力が入った。 

 与えられるのはビジネス書や実用書の類であったが、本を送ってもらうというのではなく、いちいち編集部へ出向いて本をもらっていた。書いた原稿を届けるのも直で、往復の電車賃を考えれば、とても割に合う仕事ではなかったが(原稿料は千円台だったと思う)、太平洋ひとりぼっちの身としては、とりあえずしがみつく板切れであった。 

 その後、ライターの営業品目としてはメインとなる書評も、この時が最初で、とにかく字数を埋めて瀬戸川さんに届けた。最初の一発目はそもそも字数が間違っていて、その場で書き足した。「短い書評だけど、やっぱり数行、本からの引用を入れたほうがいいよ」などとアドバイスもされた。情報を詰め込むというより、一個の読み物として成立するように、とも教えられた。まるっきり先生と生徒であった。 

 当時、瀬戸川さんの事務所があったのは新宿区四谷四丁目の9あたり。四谷四丁目交差点から外苑西通りの一本東側の路地を入ったところだった。その後雑誌社に就職することになったので、通ったのはせいぜい二ヵ月くらい。それでも数枚の原稿用紙をかばんに入れて、夜道を松明をともして歩くような気持ちで四谷四丁目の交差点に立ったのだ。 

 今年初め、新宿御苑を散歩し、その東側に現存する内藤町というお屋敷町を巡ったとき、ひさしぶりに四谷四丁目の交差点に立った。北西角にかつてサンミュージックという芸能プロの本社があり、1986年4月、アイドル歌手の岡田有希子がそこから飛び降り自殺した事件は大きな話題となった。瀬戸川さんからだったか、あるいは別の人か、あそこがそうだと聞かされ、四谷四丁目の交差点に行くと、いつもビルを見つめ重い気分に襲われた。 

 大阪で芸能人情報というと、「トイレ入ったら前田五郎がしょんべんしてた」とか、「あのスナックのママは〇〇(大阪の芸能人)の姉ちゃん」などスケールが小さい。 
 東京はいやに生々しい街だと思った。 

現在の四谷四丁目交差点。事件後、ここは黒山の人だかりとなった。ファンと思われる若者の後追い自殺が続いてしまった
1991年(平成3)の出来事 

・11月24日、英国のロックバンド「クイーン」のボーカル、フレディ・マーキュリーが45歳で死去。『ボヘミアン・ラプソディ』『キラー・クイーン』『ウィ・アー・ザ・チャンピオンズ』などを作詞・作曲、同時に史上最高のヴォーカリストだった。 

・アウンサンスーチー氏、ノーベル平和賞受賞 

・ソ連崩壊 

(つづく)

タイトル文字・写真・イラスト=筆者

岡崎武志

おかざき・たけし 1957年大阪生まれ。立命館大学卒業後、高校の国語教師、出版社勤務を経てフリーライターに。「神保町ライター」の異名を持つ。近著に『憧れの住む東京へ』(本の雑誌社、2023年)、『古本大全』(ちくま文庫、2024年)、『ふくらむ読書』(春陽堂書店、2024年)などがある。

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