【連載】世界は音楽でできている◎東海大学教養学部芸術学科――第4回 檜垣智也/まだ名前のない音楽――この世界、すべてが音楽? 

第4回 まだ名前のない音楽――この世界、すべてが音楽? ——檜垣智也

 この春、中学生になる息子が家でピアノに向かい、いろいろな和音を試している。「コード進行」をなぞるというより、鍵盤の上で指を少しずつ動かしながら、「この響き、いいな」「これはちょっと違うな」と、一音一音の手触りを確かめているように見える。 

 面白いのは、その響きの中には、教科書に出てくるようなコードネームを当てはめにくいものもあることだ。名前を当てはめる前の段階で、「響きそのもの」をちゃんと聴いている。私はソファに座って興味がないふりをしながら、実はこっそり耳を傾けていて、ときどき少し感心している。 

 ピアノやソルフェージュ(音楽の基礎的な能力を養う訓練)のレッスンは、一度お休みすることにしたけれど、彼の中で音楽そのものが消えたわけではない。レッスンという形ではなくなっても、もっと自由なかたちで続いているのだと思う。それはもう、音楽になり始めている。まだ名前がないだけで。 

 だから、この区切りに、少しだけ真面目な話をしてみたい。面と向かって言うのは照れくさいので、このスペースを借りて、ひとつ問いかけてみる。「この世界、すべてが音楽?」なのかって。 

どんな音も音楽になりうる 

 朝、台所では食器が触れ合い、窓の外では交差点を曲がっていく車の音がかすかに重なる。学校へ行けばチャイムが鳴り、廊下では話し声や足音が重なり合っている。私たちの一日は、思っている以上にたくさんの音でできている。通常は意識しない音も、耳を澄ませると、それぞれに違う表情がある。 

 私が音楽家として扱っているのは、少し変わった音楽だ。メロディーや歌詞よりも、音の質感や重なり、空間への広がり方――つまり「響き」そのものに惹かれてきた。楽器の音だけではなく、ふだんは聞き流してしまうような物音も、私にとっては大切な材料になる。 

 学生だったころ、「ミュジック・コンクレート」という音楽を初めて聴いた。それは録音された現実の音でできた音楽だ。最初の感想はとても素朴なものだった。「さっぱりわからない。でも、なんだか気になるな」 。

 聴いているうちに、列車の走行音も、扉が軋む音も、床に落ちた蓋が回り続ける音も、音楽を形づくる素材として聴こえてきた。世界の聴こえ方が、そこで少し変わった。あのとき、この世界のどんな音も、音楽になりうるのかもしれない、と思った。 

 そして、その音をどう届けるか、ということもまた大事になる。そこに、「アクースモニウム」という方法がある。性格の異なるたくさんのスピーカーを、ひとつの楽器のように扱い、音のための空間をその場で組み立て直していく。 

 ミュジック・コンクレートでも、アクースモニウムでも、していることの根っこはどこか似ている。名前を先につけるのではなく、まず耳で確かめながら、響きのバランスを探っていくことだ。どの音をつなげるか、どう重ねるか、どこに置くかを試しながら、まだ言葉にならない感覚を少しずつ形にしていく。その点では、息子が今、鍵盤上で和音を探していることとも、どこか通じている。 

 息子は小さいころから、ときどき私のそうした音楽を聴きに来てくれていた。暗闇の中で何が起きているのか、よくわからなかったかもしれない。でも今、ピアノの前で、彼がまだ名前のない響きを探しているのを聴くと、あの会場の音たちが、その耳に小さな痕跡を残したんじゃないかと、思うことがある。少し勝手な想像かもしれないけれど。 

 もちろん、最初から何でも音楽に聞こえるわけではない。けれど、こんなふうに耳の向け方を少し変えるだけで、ただの音に思えていたものが、急に別のものとして立ち上がることがある。 

 だから、息子が今、鍵盤の上でやっていることは、とても大切なことに見える。和音は、ただの記号じゃない。ひとつ音をずらすだけでも、音を足すだけでも、同じ音のまま弾き方を変えるだけでも、響きは大きく変わる。 

 強く弾けば硬く、弱く弾けば柔らかく聞こえる。低い音を足せば重心が変わり、高い音を重ねれば空気の明るさまで変わる。名もない和音を見つけるというのは、まだ言葉になっていない世界の面白さに触れることなのかもしれない。 

 私自身も中学生のころから、響きそのものに惹かれていた。高校生の時にシンセサイザーを手に入れて、合成のしかたを少し変えるだけで、音の印象が大きく変わるのが不思議でたまらなかった。 

 和音の響きを探ることと、シンセサイザーで音色をつくりながら響きを探ることは、別のようでいて、もう同じところにつながっている。だから、ひとつ音をずらしたり、弾き方を変えたりしながら和音を探している彼を見ていると、その響きを追いかけていたころの自分を思い出す。 

聴くことから音楽は始まる 

 息子はこれまでピアノ漬けだったけれど、中学生になれば忙しくなる。音楽から少し離れる時間もあるだろう。でも、それでいい。離れている間も、耳は世界の音を聴き続けている。名前のつかない響きを面白いと感じたその耳は、きっと消えない。 

 今この原稿を書いているのは、息子のレッスンが終わるのを待ちながら、近所のコンビニの駐車場にいる時間だ。夕方の交差点には、信号待ちの車が止まり、青になるたびにまた流れ出していく。こうしたひと時が今月でいったん区切りになると思うと、少し寂しい。 

 レッスンのあと、ソフトクリームを食べながら帰るのが、ちょっとした楽しみだった。それもしばらくなくなるのだな、と思うと、その寂しさは少しだけ大きくなる。

  けれど、その寂しさの中にも、ちゃんと音がある。交差点でいったん止まり、また流れ出していく車の気配。遠くでつながったり途切れたりする街の響き。寂しい気持ちのまま、そういうものに耳を向けていると、ただの風景だった音が、ふと音楽のように立ち上がることがある。 

 そうすると、世界そのものが少し新しく見えてくる。「この世界、すべてが音楽?」という問いには、こう答えたい。「最初からすべてが音楽なわけではない。でも、世界のどんな音も、聴き方しだいで音楽になりうる」。 

 音を音楽として立ち上がらせるのは、聴き手の耳なのだと思う。答えを急がずに耳を澄ませていると、まだ気づいていなかった美しさが、ふっと見つかることがある。名前のつかない響きに「いいな」と思える耳があるなら、それだけで、もう十分なのかもしれない。 

 まだ名前のない音楽は、思っているより近くにある。鍵盤の上にも、夕方の道の上にも。ここまで、そうした響きのことを書いてきた。でも、音楽の入口はそれだけじゃない。ずっと親しんできたクラシック音楽も、もちろんそのひとつだ。 

 次回は、世界で最も広く親しまれてきた音楽のひとつ、クラシック音楽について、梶井龍太郎先生に紹介していただきます。 

檜垣智也(東海大学教養学部芸術学科准教授)
Photo by Ryuhei Yokoyama

ひがき・ともなり 作曲家・アクースモニスト。愛知県立芸術大学大学院修了。博士(芸術工学・九州大学)。作品は欧米・アジア各地で上演され、フランスなどの欧米の公共放送等でも紹介。INA-GRM、Motus、ハーバード大学、ケルン大学、M.ar.eなど世界中のアクースモニウムを演奏。リュック・フェラーリ・コンクール最高賞、文化庁メディア芸術祭審査委員会推薦作品、大阪文化祭奨励賞など受賞。Le Cube、ヴィラ九条山、ACA財団、Fiminco財団などで滞在制作。Musiques & Recherches国際空間演奏コンクール審査員。Futura国際音楽祭メンバー、hirviグループ代表。

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