【フォトエッセイ】日本の包み紙 Collection◎上ヶ島オサム――第15回/旅客機のエチケット袋

第15回 旅客機のエチケット袋

 日本の旅客機のジェット機化が進んで、機内に通路を2列配置したワイドボディ機による大量輸送が実現した昭和40年代は、空の旅が日本人に身近になった時代でもあった。当時の国内航空旅客数は、昭和40(1965)年度の年間515万人から、昭和45(1970)年度には年間1543万人に増加している。今回紹介するエチケット袋は、その頃に日本の旅の翼を担っていた航空会社3社のもので、3社の特徴的なマークがあしらわれている。

 鶴丸の通称で呼ばれた日本航空(JAL)のマークは、昭和34(1959)年に制定された日米デザイナーによる合作。日本宣伝美術会会員の宮桐四郎のデザインを元に、アメリカの広告代理店Botsford, Constantine & Gardnerのヒサシ・タニが製図したものだった。
 全日本空輸(ANA)のマークは、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いたエアスクリュー(ヘリコプター)のスケッチを図案化したもの。昭和27(1952)年に、航空ジャーナリスト小守郁雄の発案を二科会会員の山路真護[やまじしんご]がデザインした。デザインされた当初は、全日空の前身である日本ヘリコプター輸送の社章であった。
 東亜国内航空(TDA)のマークは、グラフィックデザイナー亀倉雄策のデザインによる。昭和46(1971)年に、日本国内航空と東亜航空が合併して東亜国内航空が誕生した際に制定された。鳥が2羽飛んでいるイメージには、花のようにも見える狙いがあり、ジェット噴射をシンボライズしたデザインでもあるという。

 当時の航空3社は、航空会社の事業割り当てを国が決めた産業保護政策下にあった。昭和45(1970)年の閣議了解および昭和47(1972)年の運輸大臣通達によってスタートした政策は、「45・47体制」と呼ばれた。昭和60(1985)年まで続いた3社の割り当てでは、日本航空が国際線と国内幹線(札幌、東京、大阪、福岡、那覇)を担当し、全日空は国内幹線とローカル線、東亜国内航空はローカル線を担当した。
 東亜国内航空は昭和63(1988)年に日本エアシステム(JAS)に社名を変更したのち、経営統合によって平成14(2002)年に日本航空グループに吸収合併された。 

〔参考文献〕
運輸経済研究センター編『戦後日本の交通政策 経済成長の歩みとともに』(白桃書房、1990年)
「ブランドマークの60年」『JAL公式サイト』https://www.jal.co.jp/jalcard/service/img/agora/brand.pdf
「マーク物語 全日本空輸」『政経人』第25巻第4号(1978年4月)
「企業の紋章 東亜国内航空」『日経広告手帖』第26巻第4号(1982年2月)

【上ヶ島さんの空のエチケット袋コレクション】

 上ヶ島オサムさんのコレクションから秘蔵の空のエチケット袋を紹介します。お楽しみください。(画像をクリックすると拡大表示されます)

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上ヶ島オサム

かみがしま・おさむ 紙物収集家。1957年北海道生まれ。東海大学工学部卒。著書に『レトロ包装シール・コレクション』(グラフィック社)、『絵はがきのなかの札幌』(北海道新聞社)、『さっぽろ燐寸ラベルグラフィティー』(亜璃西社)などがある。

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