前回の記事はこちら「【ジャーナル】掘り起こされたブラジル移民史の闇 ―第3回」
明治以後、日本は国策として多くの移民を海外に送り出した。新天地、海外雄飛といった文句が後押しし、南米、北米、中国、フィリピン、南洋諸島などに向かった移民の総数は100万人を優に超えるとされる。だが現実は厳しく、第二次世界大戦がいっそう暗い影を落とし、悲惨な状況に陥った移民たちも多い。ブラジル移民史に埋もれた日系移民のサントス強制退去事件もその一つ(2024年にブラジル政府が謝罪)。それを掘り起こした映画『オキナワ サントス』を撮った松林要樹さんの奮闘の日々。

誰がつくった資料か
2016年8月、誰によって作られたかよく分からないが、サントス日本人会館に置かれていた585家族の名簿。その名簿によると六割が沖縄からの移民と推定されたため、その名簿を基にブラジル沖縄県人会によって、強制退去に遭遇した証言者探しが始まった。

三ヵ月の間に、すでに同時並行で十人以上の強制立ち退きの経験者にインタビューを試みていたが、名簿の存在をもちろんその方たちが知るはずもない。この資料の存在を私に伝えてくれた肝心のサントス日本人会の会長補佐の大橋健三さんも誰が持ってきたのかさっぱり分からず、お手上げ状態になっていた。
この取材を行うたびに、私と共闘関係にある雑誌『群星』の編集長の宮城あきらさんと名簿を確認するが、この名簿の名前は実在の人物で信ぴょう性が極めて高く、この資料を誰が一体どの時期にどういう目的でつくったのか、それがよく分からないとのことだった。
この名簿が残されていたサントス日本人会館は、サントス日本語学校として運営されていたが、1938年以降、ブラジルでは移民の外国語の教育が禁止され、別な名前で運営されていた。学校は戦時中にブラジル軍に接収され、2008年の日系移民百周年の記念の年に建物が返還された(2018年に日本人会館は土地も含めて正式にサントス日本人会へ返還された)。2016年時点で、日本人会館の返還運動を上新[かみ・あらた]さんから引き継いでいたサントス市議の中井貞夫さんの事務所に向かうことにした。
サントスの市議会議員の中井貞夫
中井貞夫さんの祖父、中井茂次郎さんは戦後、サントス日本人会の初代会長をやっていた。1902(明治35)年、中井茂次郎さんは和歌山県の串本に生まれ、サントスを拠点に漁業で生計を立てていた。中井さんの一家も強制退去に遭遇し、内陸部に移され、1947年にまた再びサントスに戻ってきていた。その茂次郎さんの孫にあたる貞夫さんに名簿資料について聞きたい、同時に退去事件についてインタビューもしたいと申し出た。市議なのだが、あっさりと取材の許諾がおりた。
通訳のタツヤさんと中井さんの事務所につく。秘書の案内で部屋に通される。タツヤさんと部屋で待っているとスポーツ刈りの中井貞夫さんがやってきた。さっそく、この名簿について知っているかと聞いてみた。
中井さんは資料を一瞥して、この資料のことかと安心した様子で、その書類は、日本語学校(現・日本人会館)で校長先生だった柳澤秋雄さんの息子のセルジオさんが持ってきたと言う。

柳澤秋雄さんは1923(大正12)年に長野県で生まれた。2006年、柳澤秋雄さんの長男であるセルジオ柳澤とその妻のナナさんたちが、サントス日本人会館の返還の運動が始まったころ、家で見つかった資料だと言い、返還運動の役に立てばと持ってきた。持ってこられた資料は、中井貞夫さんたち、サントス日本人会に預けられ、遠藤さんという当時の会長に引き継いだが、彼の時代に大橋健三さんへ引継ぎがなされず、所在不明の資料となった。中井貞夫さんは、この資料の存在を知っていたが、これまでも公にはしていなかったという。ただ、この資料が、返還運動に役に立ったかといえば、そうではなかったと貞夫さんはいう。具体的には何も役に立たなかった。資料としては、沖縄県人会と一緒に進めているこの取材の方が活用されているということだ。
教育県出身の柳澤秋雄
サントス強制退去時、サントス日本人学校の校長が柳澤秋雄さんだった。その息子のセルジオさんが、父の遺品を整理していた時、父が愛用していたテニスクラブのカバンの中から見つけてきた。柳澤秋雄さんが1943年7月にサントス強制立ち退きにあったとき、すでに日本大使館は存在していなかった。だが、柳澤秋雄さんは日本人の権益のためスペインとスウェーデンの領事部で敗戦まで椅子を借り、日本移民の事務作業をやっていた。
その柳澤秋雄さんは1931(昭和6)年、長野県で小学校教員の養成課程を修了、1933年にブラジルにやってきた。長野県は教育に力を入れている。その後、サンパウロの大正小学校で日系人向けに日本語教師をやっていた。長野県からの移民が多い、ミランドポリスのアリアンサ移住地で1938年から39年まで教師をやり、その後、どういうわけでサントスに引き抜かれたのか、サントス日本語学校の学校長になっていた。柳澤さんは日本の師範学校を出ており、ブラジルでも教職の資格を持っていた。両方の国の教員の資格を持つ人は、当時とてもまれだったので、かなり優秀な人だったという。
ナナさんによれば、柳澤秋雄さんが戦時中にサントスに住んでいた日本人の住所と家長の名前が入ったリストを作ったという。この人でなければ、資料を残すことは難しかったのかもしれない。

資料はなぜつくられたのか?
柳澤秋雄さんの息子のセルジオさんも2015年に鬼籍に入っていたが、妻によってどういう経緯で見つかったのか、それが分かっただけでもとりあえず御の字だった。一般的にブラジルの日系社会では「町を拓くと西洋人たちはまず教会を造り、日本人は学校を造る」と言われる。とにかく、移民一世の日系人は子女の教育に熱心だった。その象徴である日本語学校は日系移民にとって重要な建物だった。その返還に全精力を傾けたのは、第三話で取り上げた上新さんだった。
サンパウロに戻って、日本語新聞を掘り起こすと、柳澤秋雄さんの輪郭が見えてきた。柳澤さんは日本の敗戦を認識していた認識派(負け組)だった。そのため、勝ち組に命を狙われていたこともあったという。1952年、ブラジルと日本の国交が回復後、日本領事館に勤めていた。ただ、サントスで日本語学校返還運動をやり、日本人会の会長をやっていたのは、上新さんだ。上さんは信念派(勝ち組)だった。その二人の関係は水と油、お互いに交流もなく資料を提供するような関係でもなかったと推測される。
柳澤秋雄さんは1994年に逝去していた。しかも長男も2015年に逝去していた。柳澤さんが戦時中、ブラジルにいる日本人の権益のために外国の領事館の部屋を借りて、そこで仕事をしている時期に名簿を作っていたという事だけが分かった。その根拠として、資料の最後のページに「1945, A. Yanagisawa」と記されていた。
オリジナルの資料はサントス日本人会に寄贈したという。だが建物が返還される前の日本人会には自前の建物がなく、日本人会の会長の家などが活動の拠点だったこともあり、資料は活用されることなく、眠っていたのだ。
(つづく)

まつばやし・ようじゅ 福岡県出身。ドキュメンタリー映画監督。戦後もタイ・ビルマ国境付近に留まった未帰還兵を追った『花と兵隊』(2009年)でデビュー。『祭の馬』(2013年)は、2013年ドバイ国際映画祭〈ドキュメンタリー・コンペティション部門 最優秀作品賞〉を受賞。2020年、戦時中のブラジル・サントスからの強制退去を描いた『オキナワ サントス』を発表。著書に『馬喰』(河出書房新社)など。現在は沖縄在住。