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【ジャーナル】掘り起こされたブラジル移民史の闇 ――『オキナワ サントス』撮影の日々――第2回◎松林要樹

明治以後、日本は国策として多くの移民を海外に送り出した。新天地、海外雄飛といった文句が後押しし、南米、北米、中国、フィリピン、南洋諸島などに向かった移民の総数は100万人を優に超えるとされる。だが現実は厳しく、第二次世界大戦がいっそう暗い影を落とし、悲惨な状況に陥った移民たちも多い。ブラジル移民史に埋もれた日系移民のサントス強制退去事件もその一つ(2024年にブラジル政府が謝罪)。それを掘り起こした映画『オキナワ サントス』を撮った松林要樹さんの奮闘の日々。 

子どもたちの記憶 

 2016年、森口イグナシオさんに続いて、深沢正雪さん(当時、サンパウロの日本語新聞「二ッケイ新聞」編集長※)から紹介されたのが、サンパウロ中心部にある曹洞宗仏心寺で元婦人部長を務めた斎藤明子さんだ(旧姓は岡本)。 

※現在は「ブラジル日報」 

斎藤明子さんとご友人の五十旗パウロさん

 明子さんは耳は遠いが、記憶ははっきりとしていて滑舌もよく日本語も達者だ。明子さんが仏心寺に取材用の場所を交渉してくれ、そこで撮影となった。 
 仏心寺は日系人が多い東洋人街リベルダージにあり、比較的治安がいい。10時と指定された時間の20分前に行くと、すでに明子さんの姿があった。白髪で顎がとがった感じが私の母方の祖母に似ていて、親しみを覚えた。子ども時代の友人、五十旗パウロさんを呼んでいると言う。 

 明子さんはサンパウロ郊外のスザノで育ったが、日本語を学べる学校が近所になく、サントスの長尾さんという大分県出身の人の家に下宿し日本語学校に通った。長尾家での記憶はしっかりしていて、長尾家で使用人として働いていたのが沖縄出身の女性だったこと、サントスには沖縄からの移民が多く住んでいたことを語ってくれた。 

 友人のパウロさんは10時半にやってきた。パウロさんは1980年代後半に熊本に出稼ぎで行ったことがある。日本人は時間にやけに正確で、少しでも遅れるとひどく叱られたと話した。

 パウロさんの父親の直義さんは、当時では珍しくラジオを持っていた。日本からの電波を拾って、夕方、家族や近所の人を集めてラジオを聴いていた。 そのことが原因なのか、父親は1943年のサントス退去事件後、サンパウロの留置所に1ヵ月以上拘束された。警察にスパイ容疑のような形で拘束されていたのは、以後の取材を通して分かったが、パウロさんの父親だけだった。
 パウロさんも強制退去の時の駅は混乱していたと話した。数日後には、パウロさんの自宅に伺い、パウロさんの姉のナオコさんも取材させてもらった。 

沖縄県人会

 深沢さんからは、宮城あきらさんも紹介された。ブラジル沖縄県人会で長く移民史に関する資料を編集している方だ。美ら海水族館がある沖縄県本部町の出身。子どもの頃に沖縄戦を経験。祖母を戦場で亡くした。その後、縁がありブラジルに移住した。 

 7月のサンパウロは真冬だ。雨が降ると昼間でも日陰は寒い。ブラジル沖縄県人会本部は、治安の悪い場所が近くにあるというので急ぎ足で向かった。なるほど、坂を上ると県人会本部があり、逆に坂を下っていくと道にはゴミが散乱し、上半身裸で歩き回る人が多い。 
 駐車場を備えた県人会本部の建物は大きい。受付で聞くと、すでに宮城さんは応接室で待っていると言う。 

 宮城さんは、どことなく学校の先生のようで厳格な雰囲気がある。あとでわかったがご家族にも学校の先生が多い。宮城さんが手がけてきた県人会関連の書籍に目を通してきたこと、サントス強制退去事件を取材していることを伝えた。宮城さんも「事件にすごく関心があるが、事件を追うとっかかりがなかなかない」と言う。そして、自分が住むサントアンドレ地区で、週末、敬老会の催しがあるので、顔を出してみてはどうかと誘われた。 

 週末、駅からウーバーで10分ほどのサントアンドレの「うるま会館」に向かった。すでに会館の周りには車がたくさん停まっていた。会館入り口付近にまで人の列があった。沖縄の男性たちが好んで食べるヒ―ジャー汁(山羊汁)を待つ人たちだった。 
 私も宮城さんの勧めで食べてみたが、おいしくて二杯食べた。「ビールも飲みなさい」と、若い私が宮城さんから接待される。 

山羊汁をふるまってくれた宮城あきらさん(右)

「ここにいる戦後移民たちは沖縄戦を経験しています。戦争と移民というテーマ、これは私がやっている雑誌『群星』のテーマでもあります」(宮城さん) 
 たまたま隣に座った平仲真幸さんという方は、沖縄戦で家族のほとんどを失い、こちらにやってきたという。戦争と移民。私はこれまでドキュメンタリー映画などを作ってきたが、まさに手がけたいテーマだと伝えた。 

 帰り際、宮城さんはお土産として、もう一杯の山羊汁をくれた。この山羊汁を作ってくれていた糸洲三郎さんという人も、同じように沖縄戦で家族を失っていた。 
「松林さん、山羊汁はおいしかったでしょう。私たち沖縄人にとってごちそうです。ただ、タダ飯では割りが合わない。取材、頑張ってください」とはっぱをかけられた。私はサントス事件の取材に関して責任を感じつつ、取材の方向性がいまだ決まらないまま時間が過ぎていくことに心が重かった。 

名簿の発見 

 2016年8月31日。バスで、サントスの日本人会館に向かった。 
 サントス強制退去事件後、サントス日本人会館はブラジル海軍に接収され、戦後もそのままブラジル政府が所有した。2008年、ブラジル移民100年を機に建物がサントス日本人会に返還され、2018年には土地も返還された。 

 地図を見ると、サントスのバス停から日本人会館は歩ける距離だが、途中にトンネルがあり、ネットの情報では、その辺の治安が悪いという。機材があるのでウーバーに乗って向かうことにした。 

 日本人会館では、昼食の時間帯だったにもかかわらず、大橋健三さん(サントス日本人会会長補佐)が、すぐに対応してくれた。昭和7年生まれの静岡県磐田市出身で、25歳の時に農業移民として移住後、珈琲業界で働き、珈琲審査員資格(カップテイスター)を取得されている。大橋さんが淹れてくれたコーヒーはとてもおいしかった。 

大橋健三さん

 大橋さんはサントスの歴史について詳しく調べていた。移民となる前には、天竜川のそばにある小学校で代用教員として働いていた。そして、カップテイスターになる前にしばらく出版社で働いていた。そういう経歴もあってか、サントスの日系人の動きを年表化していた。会館の玄関に無造作に置かれていたのが「サントスの住民名簿」だった。欲しいという人には配っているという。 

 翌日、再びサントス日本人会館を訪ね、資料室の本棚に表紙が赤茶けた古い名簿を発見した。オリジナルの原本だった。 
 2014年のサッカー・ワールドカップや16年のリオオリンピックの時、サントスを訪れた大手新聞社やテレビ局、出版社の雑誌記者などにこの資料を配布したが、全く関心を示さなかったという。 

 午後、事件当時、日系人が多く住んでいた市内を車で案内してもらったときに、大橋さんは「なぜこの資料に関心を持っているのか?」と聞いてきた。他の誰も関心を持たなかったのに、私だけが強く関心をもつから、何かおかしいと思われていた節さえあった。 

 このオリジナルの名簿が大橋さんの手元に渡ったのは、ブラジル政府から会館が返還された2008年以降で、誰がどういういきさつで大橋さんの机に置いたかということも分からない。まるでなぞかけのように、机の上に置かれていたそうだ。サントス日本人会の前任会長はいろんなことに力を入れていたが、こと史料編纂などには関心がなかったという。前任会長から大橋さんへこの手の資料についての引継ぎはなされなかった。 
 名簿の苗字から、約6割が沖縄から移民してきた人たちではないかということが分かった。 

 この名簿の存在が、事態を大きく展開させた。オリジナルの資料を確認後、深沢さんに相談に行くと、ブラジル沖縄県人会へ出向き、宮城あきらさんに相談することを提案された。サントス強制退去事件の真相を探ろうと、深沢さん、山城勇さん、宮城あきらさん、奥原マリオさんらとリベルダージの日本食レストランに集まった。 

 私は資料を物撮りして、カラーコピーしたものを皆さんに渡した。厳しい表情で資料を見た宮城さんの表情が和らいだ。そして「『群星』で取り上げたい、一緒に取材をしませんか」と言われた。映像と『群星』での企画が同時にはじまった。それからの取材は沖縄県人会が組織的に動き始めた。 

 ある地区にサントスから追われた人たちがいるという情報が次々と上がってきた。その後の取材は、ほとんどが沖縄県人会の方々にお世話になりながら進めた。 
 取材は四回に分けて行われた。2016年の6~12月、2018年の3~5月、2019年の4月、そして謝罪が表明された2024年の7月だ。 

(つづく) 

松林要樹

まつばやし・ようじゅ 福岡県出身。ドキュメンタリー映画監督。戦後もタイ・ビルマ国境付近に留まった未帰還兵を追った『花と兵隊』(2009年)でデビュー。『祭の馬』(2013年)は、2013年ドバイ国際映画祭〈ドキュメンタリー・コンペティション部門 最優秀作品賞〉を受賞。2020年、戦時中のブラジル・サントスからの強制退去を描いた『オキナワ サントス』を発表。著書に『馬喰』(河出書房新社)など。現在は沖縄在住。