【連載】詩のとびら◎マーサ・ナカムラ——第9回/「ねむりひめ」の気配  —榎本櫻湖「冬の旅」—

第9回 「ねむりひめ」の気配  —榎本櫻湖「冬の旅」—

 寝室で詩を読むかわりに、童話「ねむりひめ」を声に出して読んでいた。 

すべてが ねむった しろの まわりに、いばらが のびていきました。 
そして、たかい とうの てっぺんまでも おおいつくしてしまったのです。 

『ねむりひめ』(はじめての世界名作えほん23/ポプラ社) 

 やがていばらに包まれた城の中で眠り続ける、美しい姫のはなしを、人々は語り伝えるようになる。「ねむりひめ」を一目見ようと、城に向かう者は、二度と帰らない。その体は、いばらにとらわれたまま、「ねむりひめ」とともに眠るか、または、いばらの養分となるのだろう。そんな恐ろしい城を前に、人々は足を踏み入れることを躊躇する。 
 生きた要塞として、訪れる者を情け容赦なく拒み続けるいばらと、榎本櫻湖の遺した詩篇が、このとき、わたしのなかでふと重なったのだった。 

 榎本櫻湖の第一詩集『増殖する眼球にまたがって』(思潮社)の帯には、次のようなコピーがつづられている。 
「この本に/決して触れてはならない。/あなたを待ちうけているのは、/際限のない逃れがたい/苦しみのみだ。/本を開いてはならない、/頁を捲ってはならない、/文字を読んではならない、/もはや地獄だ、/きっとあなたは死ねない——。」 
 詩を「地獄」と賛美される詩人を、彼女のほかに私はしらない。 

したたかな沈没へ、鈍色に煌めく針金に縛りつけられた、疚しい深海魚の恍惚の胸鰭を引き摺り回して、循環する硬質な発光体が錯綜している断崖に、失明の浮遊にかまける腐敗の呪文を、たとえ湧きたつ天体に帯びていた不活性気体の残片を纏っていたのだとしても、

「鯨骨生物群集のための墓碑銘」(榎本櫻湖『増殖する眼球にまたがって』) 

 初めて彼女の詩に触れたとき、私はまずその「絵面えづら」に圧倒された。 
 詩における「絵面」とは、紙面に配置された漢字・ひらがな・カタカナ・記号・改行など、絵画的な詩の側面である。 
 たとえば「わたし」という言葉だけでも、「私」「わたし」「あたし」「わたし」「ワタシ」「アタシ」といった、「絵」の選択が可能である。どの「絵」を選択するかによって、言葉が生み出す映像と声質に変化が出る。「わたし」は、「私」よりもやわらかくてみずみずしい。「妾」はすこししわがれた声、カタカナの「ワタシ」「アタシ」には、どことなく機械的な、不自然な声色が加わる。 
「言葉で表現できないものを表現するのが、映像の醍醐味だ」という意見を、ある場所で聞いたことがあって、私はそのとき深く頷いた。言葉を文字として読めないなら、言葉自体に映像的な側面はない。しかし、詩集は違う。ひらがな、カタカナ、漢字、記号、改行、フォント、装丁に至るまで、その世界を魅せる作為がある。言葉を変えず、フォントを動かすだけで、言葉に含みが生まれる。だから、どの詩集にも必ず「絵面」というものはある。絵面は映像と同じように、言葉で表現しきれない部分を表現していることもある。 

 榎本櫻湖は常用外漢字、旧仮名遣いだけでなく、英語・フランス語・ドイツ語といった外国語をも駆使する。そして、まるで豪雨のような、特徴的な詩のつづり方をする。 
 非常に絵画的な書き方をしている。全てが彼女の美的世界に沿うように選択され、文字や記号はまるで小さな液晶画面のように、言葉や文脈を超越した意味を映し出し、静かな紙の中でざわめき、瞬いている。だからとても、処理しきれない。「かならず、読み解いてみせる」という強い意志で、まるで耳を塞ぎながら目を凝らすような、まさにいばらを掻き分けながら、ぎらぎらとねむりひめを探すように、息を詰めながら作品を読み進めていくものの、ついに手がかりすら見つけ出すことができないままに、詩を通り抜けて、呆然としてしまう。 
 この独特の肩透かしの感じこそ、彼女の詩が「難解」とされた理由の一つだと思う。 

 しかし彼女は、いばらのように難解なテクスト群を、いたずらに用いていたわけではない。ふつう、普段の生活でまったく使用することのない言葉を詩に用いると、不思議と、その言葉は有り合わせの、質の悪い釘のように浮き上がってくる。やがて虚実の「虚」の錆が周囲に広がって、そこから作品が崩壊していく。詩には、そんな妙がある。 
 彼女の詩は堅牢である。代替可能なモチーフさえ思い浮かばない。おそらく、彼女は実生活の上でも、こうした難解な言葉とともに、生きていたのだと思う。彼女が繰り出す言葉は、まるで従順な劇団員のように役割を果たしながら、血色の良い、艶やかな表情をも見せる。 

 昨年二〇二四年四月に、榎本櫻湖の訃報を受け取った。彼女はまだ三十六歳だった。 
 同年の九月に発刊された遺稿詩集『Hanakoganei Counterpoint』(七月堂)に収録された「冬の旅」という作品に、私は目を奪われた。 

わたしは——わたしは、とわたしは書きだしてしまう、ようやっと、ためらいもなしに、わたしは、と——帰る場所を探していたのかもしれない、帰る場所を、ずっと、わたしがわたしであるまえから、ずっと、まったく、とるにたらない、つまらない思いを抱いて、毛足の長い飼い犬を抱えるようにして、 

「冬の旅」(ページ下に全文掲載) 

 現代社会を生きる詩人にスポットライトをあてる、『Edge』というドキュメンタリー番組があって、二〇一五年前後に取材を受けたことがきっかけとなり、詩「冬の旅」は生まれたようだ。現在、彼女が取材を受けた回の「詩人・榎本櫻湖の冬の旅」は、YouTubeでフルバージョンが無料公開されている。 
 この番組の中では、彼女が女性の心を持ちながら、男性の体で生まれてきたことが明かされている。家庭内暴力、自殺未遂。重く苦しい経験を語りながらも、彼女には独特の剽軽ひょうきんさがあって、目が離せなくなる。 
 親しい詩人や編集者との、新年会のシーンがはさみこまれる。「将来の夢」を問われた様子の彼女は、一つ目に「筆で自分の食い扶持くらい稼げるようになる」、二つ目に「ものすごくハンサムなハーフの大学生が、白馬に乗って私のもとへやってくる」と答える。そこで、どっと笑い声が起こる。 

 ある時、三軒茶屋駅のホームで偶然、彼女に出会い、立ち話をしたことがあった。 
 他人に対して、辛辣な言葉を容赦なくぶつけながらも、一番自分が傷ついたような表情をする人だった。だから私は、どんなことを言われても、不思議と傷つくことはなかった。 
 彼女は晩年まで、私家版の小さな詩集さえ、まめに郵送してくれていた。私は勤め先の都合で、住居を転々と変えていたけれど、東京から離れて暮らしていても、彼女の詩にこそ「中心」があるように思えて、親の足跡を無心に追いかけるように、彼女の詩を読んでいた。だからこそ「冬の旅」が、彼女にとって特別な意味をもつ作品であることがわかったのかもしれない。 

「冬の旅」は、彼女のいばらがほどけている。そこには「ねむりひめ」の確かな気配がある。訪れた者たちが通り抜けられるだけの、隙がある。その隙からは、いばらのなかでねむりつづけてきた彼女の、生き生きとした横顔が見える。最後には、立体的な後ろ姿まで。この詩の中で、彼女はねむりながら、数えきれないほどの夢をみながら、永遠に生き続けている。 
 彼女が本当に夢見ていたのは、白馬に乗った王子様が助けにくることではなく、いばらの中でねむりつづける「自分自身」を、自らの手で救い出すことだったのではないか。いばらをかき分けた先にいた「わたし」と向き合った瞬間の彼女の心の震えが、この詩を通して、いつまでもわたしに伝わってくる。  

クリックすると拡大します
クリックすると拡大します

 冬の旅 榎本櫻湖

わたしは――わたしは、とわたしは書きだしてしまう、ようやっと、ためらいもなしに、わたしは、と――帰る家を探していたのかもしれない、帰る場所を、ずっと、わたしがわたしであるまえから、ずっと、まったく、とるにたらない、つまらない思いを抱いて、毛足の長い飼い犬を抱えるようにして、そう、そこは犬小屋のような、豚小屋のような、木切をくんだ、簡素な、粗雑な、安価な木材に浮いた木目をペンキで覆い隠すこともなしに、そこにあるいは犬の足跡が、乾いて罅割れた肉球のこまかい筋目にはいりこんだ土埃などの痕が残ってしまうかもしれないし、そうした誰かの、なにかしらの痕跡に凭れかかって寒いのに汗をかきながらはじめて冬の星座を眺めたころ、節分をすぎてなお鹿の角を生やした鬼に追いたてられて樹海を彷徨ったあの日、などと装ってしまってもいいのかもしれない、木片をならべただけの遊歩道からそれて、いよいよなまえのわからない樹々にかこまれて、まさか、鬱蒼、などとは、そんな卑俗な物言いをするのは憚られるのかもしれないけれども、真下に終わりのしれない洞窟をおり畳んだやさしい樹海のただなかに、きっとみつけるだろう世俗から逃れてきた僧侶のひっそりと暮らす粘土と牛の糞尿を混ぜたあたたかみのある細工物を、消化しきれなかった禾本科植物の花穂やなにかが壁から顔をだして、古めかしい歌を口遊んでみせた、川を渡るまえに、鼈甲を背負って、焼き菓子をくわえさせて、わたしは――またしても、わたしは、とわたしは書きつぐことをやめられない、潰れた蒲団に包まっていたわたしは――、それを帳面に写すことすら怠ってしまったので、雛の、ようするに雀かなにか、梅や椿の枝でときおり囀ったり叫んでみせたりもする鳴禽類の一種の幼鳥が、黄いろい嘴をひらいて、薄紅いろの口腔に釣餌を溢れさせている糞と涎と羽毛とにまみれた巣――斑いりの卵殻を粉々に砕いて庭の鉢植えに撒いてみる――、そこへと到る蠕動する薔薇のはなびらにきっと汚れた指をかけてしまうのだろう、冬が幻視の季節だとするならば、安楽椅子に腰かけて霧のなかに腕をつきだし、そのひとのまぼろしの肩に手をかけようと空を摑んだまま、汗で湿ったてのひらを、指をただむなしく動かすだけだろう、たち枯れた薄が風に靡いているなかを歩いていって、やがて両脇に崩れた石垣がつづくひとけのない路地をぬけて、そのひとの生家へと辿りつくだろう、黴臭く埃の舞う畳敷きの部屋でふたたび、籐の揺り椅子に坐ってわたしの写ってはいないアルバムを懐かしそうに捲るだろう、庭先から頻りに吠えたてる犬の気配だけが漂ってくるが、それよりそのひとの影がゆらゆらと扉があいたままの便所へと消えていくのをじっと見ていることしかできないのだった、錆びた釘が何本も転がっている板の間を過ぎて倒れた燈籠や朽ち葉の浮いた手水鉢が窓のそとで息を殺して、地層が剝きだしになった崖のうえを飛ぶ鳶に怯えているのだが、そのひとはだしぬけに海沿いの、砕けた墓石がならぶまえに佇んでいるのだ、まあたらしいテトラポットが積みあげられた、砂浜のみえなくなった岸辺にそのひとやそのひとの幼い姉妹が両手いっぱいの大きな西瓜を抱えて海からの風に煽られていた、半島のように突きでた丘のうえの神社には沈没した漁船の折れた舳先や座礁した鯨の腐肉がひっそりと供えられている、そのような大地をひき剝がして隠蔽された夏の星座を眺めようとするころには、青草の苦い汁がわたしのからだのうちを巡るのだろうし、棚からなだれ落ちた本を一冊ずつ拾う窶れた手がはたして誰のあたまを撫でたのだったか、その手に浴衣を着せられて土瀝青に汗の滴をたらし、お囃子の聴こえるほうへと駈けだしていったあのときを、たったいま青鷺が飛びたっていった川辺の繁みに探すのか、毀れたラジオから聴こえてくる白鳥の歌をすこしずつ五線紙に採譜していく手をわたしはきっと捏造するだろう、そう、もうひとりのわたしがそこでそうしたように、その虚ろな情景を彷徨ういくつものわたしが、しらない家の玄関先に停められたしらない車へと乗りこんでいくのだった、それにしてもわたしはまだその日の月を見てはいないのだが、 

「投稿の広場」はこちら

マーサ・ナカムラ

1990年埼玉県生まれ。詩人。第五十四回現代詩手帖賞受賞。『狸の匣』(思潮社)で第二十三回中原中也賞、『雨をよぶ灯台』(思潮社)で第二十八回萩原朔太郎賞受賞。

バックナンバー

バックナンバー一覧へ