【連載】詩のとびら◎マーサ・ナカムラ——第13回/「わたし」を取り巻く世界の感触

第13回 「わたし」を取り巻く世界の感触

 宮城県気仙沼市には祖母が住んでいて、毎年お盆の季節が来るたびに、埼玉県から母と兄と一緒に二週間も帰省する。それが私の子ども時代だった。
 丘の上にある、祖母の家に向かう道は狭く、車は途中で置いていく。なだらかな坂道をのぼったりくだったりする。けれども舗装されていない道を踏んだ途端に、慣れていない私は本当に後ろ向きにすっ転ぶ。だから、排水溝の蓋の上を歩く。
 しばらく歩くと、左側が開けてきて、気仙沼市内と、海の向こう側にある大島の亀山が見えた。亀山は標高200メートルほどで、それほど高い山ではないが、この丘に立つと、亀山は青く雄大に見えて、いかにも山らしい。

  ふるさとの山に向ひて
  言ふことなし
  ふるさとの山はありがたきかな
            (石川啄木『一握の砂』)

 石川啄木のそんな歌が胸に浮かんでくる。私が石川啄木を知らない時から、母は亀山に向かい合うたびにこの歌をうたった。だから「ふるさとの山」といって思い浮かぶのは、いつも亀山だ。この歌と亀山が、気仙沼市は「ふるさと」だと思う私の気持ちを育てたのかもしれない。毎年この小道で亀山に行き合うたび、携帯電話で写真を撮った。
 東日本大震災が起きた時、私は大学一年生だった。翌年の夏、この小道に立って亀山を見たら、海を隠すように山裾のあたりに広がっていた建物がすべてなくなり、フローリングの床のような茶色い地面が見えた。寂しいとか、悲しいとか、そういった言葉も出ず、ただその景色を携帯電話で撮ったら、今までと全く違う表情をした亀山の姿が映った。その時に感じた戸惑いが、あれから十五年経とうとする今も、胸の奥に残っている。

 去年刊行された川上雨季の詩集『光をつたって』を読んだ時、わたしは当時の震災を思った。そこに収録された「윤슬[ユンスル]」という作品には、次のような言葉がある。「どこにいてもこの街では海から風が吹いてくる。壊れてしまったものは元通りにはなりません。壊れたもののうえに新しいものを作っていくほかなく」。「윤슬」とは、水面で形を変えながら揺らめく光のこと。水光が揺らめいていると感じるのは、過去の水光が影となって、今ある水光の形と重なり続けるからだ。過去も今も、光であることは変わらないのに、失われていく過去ばかりを懐かしく思い、今ある景色から目を逸らしてしまうのはなぜだろう。
 帯文には「能登の大地震」の文字があって、初めてこの詩集が東日本大震災ではなく、能登の大地震を扱った詩集だと気づいた。かけがえのない景色を永遠に失った人の心を揺り動かす、普遍的な意味合いをもつ一冊だ。

  まばたきをしても
  わたしの映像は
  どこにも刻むことができない
  思い出すことができるのは
  あいまいな頭で再構築されたイメージだけで
  ほんとうのところ
  まなうらと呼ばれるスクリーンは
  どこにあるのか
  見当もつかない
            川上雨季「感光」(下部に全文掲載)         
 
 この詩の語り手は、カメラを構えている。
 まばたきという動きは、たしかにカメラのシャッターを思わせる。
 景色を写真という形で半永久的に記録する「カメラ」と、目の前にある景色を記憶する「わたし」。そういえば子どもの頃に、まばたきをしただけで、まるでカメラのように、そこにある景色をすべて記憶してしまう女の子が主人公の本を読んだことがあった。記憶は記録とは違って、非常に曖昧なものだ。かつてあった街の景色を思い出そうとして、写真を実際に見てから、ああ、こういう風だったのかと思うことはいくらでもある。そこに無力感を感じるのではなく、「わたし」は今自分を取り巻く世界の感触を確かめながら光を見出そうとしている。それはカメラにはできない。カメラのフラッシュよりもあざやかな、生がきらめく瞬間である。

「景色」というのは、私が考えているよりも、もっと個人的なものなのかもしれない。私たちは同じ世界を見てはいるけれど、目に見えている景色はそれぞれ違う。「感光」の語り手が、小さな水溜りにカメラを向けて、初めてその水光を意識するシーンがある。周囲を見渡しても、その場所に目を向けようとする人は自分以外にいない。カメラを向けることで、自分だけが見ている景色というものを初めて意識する。

  裏蓋を開けると
  ケースとは反対側に
  丸まったフイルムが収まっていて
  海辺の日差しの光を吸いこんだ
  粒子の記憶をすべて上書きして
  ほがらかにそこにあった
  ちいさなカメラを鞄にしまって
  まばたきをして
  右足を踏み出して
  あしのうらに
  砕けた貝殻を感じる

「上書き」されていく景色を「ほがらかに」喜びながら生きていく。暗い過去にうつむくのではなく、ひたすら光を求めて生きていこうとするこの詩人の姿勢に目を奪われる。
 この詩の語り手は、足下にある「砕けた貝殻」に痛みを感じつつ、今生きているからこそ目の前にある世界の感触を全力で味わい、自分の生をまっとうしようとしている。
 人は記録媒体ではない。それならば、人の本分は、過去を忘れないことではなく、いま目の前にある世界の感触を、誠実に確かめ続けることなのかもしれない。
 いずれは景色とともに消えていく「わたし」にとって、「過去を忘れない」というカメラじみた肉体の特性より、「わたし」を取り巻く世界の感触こそが、「わたし」にとっては何よりも尊いというメッセージを、私はこの詩から感じた。

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 感光   川上雨季

からだは接地面につられて揺れる
波をうけて軸足がかたむいて
やむをえずステップを踏むうちに
髪が流れて暴かれた耳朶に冷たい風が流れこむ
耳のくぼみに溜まった風が
そとがわに層をなしてつらなるコミュニケーション
からわたしを突き放した
風はかたくなって
そのまま尖った痛みにかわり
愛想笑いをするたびに耳を刺した
船を降りてもつきまとうので
困った鼓膜がときおり音を拒んで
しかたのないわたしは
かみ合わない相槌をしてまわりを困らせる
影がひとつ
浅い海はターコイズから
一歩ごとにコバルトブルーへ続いていく
海のうろこが
だいじょうぶだと笑いかけるさまを
離れてそっとシャッターを切った

歩いて行くと
砂浜から飛び出た岩のあいだに
ひとつも波立つことのない水面があって
葉が一枚だけ浮いていた
ずいぶん冷たいのだろうと
手袋を外して指を浸す
冷えきった外気よりもいくらかあたたかく
「あたたかい」と思わず声を出した
あたりを見渡したが
伝わる相手は見つからなかった
ファインダーをのぞくと
肉眼では見えなかった光が
葉の奥にならんで水面に浮かんでいて
ぜんまいをまわしてまた
シャッターを切った

まばたきをしても
わたしの映像は
どこにも刻むことができない
思い出すことができるのは
あいまいな頭で再構築されたイメージだけで
ほんとうのところ
まなうらと呼ばれるスクリーンは
どこにあるのか
見当もつかない

ぜんまいがかたくなって
あたらしい写真は撮れなくなった
手回しでフイルムを巻き取って
裏蓋を開けると
ケースとは反対側に
丸まったフイルムが収まっていて
海辺の日差しの光を吸いこんだ
粒子の記憶をすべて上書きして
ほがらかにそこにあった
ちいさなカメラを鞄にしまって
まばたきをして
右足を踏み出して
あしのうらに
砕けた貝殻を感じる

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マーサ・ナカムラ

1990年埼玉県生まれ。詩人。第五十四回現代詩手帖賞受賞。『狸の匣』(思潮社)で第二十三回中原中也賞、『雨をよぶ灯台』(思潮社)で第二十八回萩原朔太郎賞受賞。

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