【連載】僕らは水の中で生きている◎橋本淳司——第10回/濡れたタオルの秘密

第10回 濡れたタオルの秘密

 水──それは、私たちの毎日にあまりにも自然に存在しているもの。けれど、その正体は〝常識はずれ〟の物理化学的性質をいくつも持つ、不思議な存在だ。

 ここは、とある総合大学。集まっているのは、サステナビリティ研究会(通称サス研)に所属するちょっとクセのある4人の大学生。

・アルバイト三昧の経済学部生・[みなと]
・行動力抜群の国際学部生・千夏[ちなつ]
・アニメオタクの文学部生(中国からの留学生)・陳 詩音[チン・シオン]
・コンピューターが大好きな工学部生・[ゆう]

 彼らの何気ない日常の会話や出来事が、やがて〝水〟の奥深い世界への扉を開いていく。さて、今回の物語では──どんな水の不思議が顔を出すのだろう?

濡れたタオルで鍋を持っちゃダメ?

 6月の終わり。河川敷のバーベキュー場には、炭の匂いと煙が漂っていた。遠くには青い富士山が見える。 

「よし、できた!」 

 湊は、得意げにふたを開けた。 

「おおー!」 

 千夏が拍手する。 

「ほんとに作れたんだ」 
「おいおい、俺を誰だと思ってるんだよ」 

 湯気とともに、赤ワインと肉の香りがふわりと広がった。湊は胸を張る。 

「焼く、煮る、蒸す。なんでもできる魔法の調理アイテム。それがダッチオーブンなのだ」 
「あ~、始まった」 

 湧が苦笑する。しかし湊のうんちくは止まらない。 

「煮込む時にフタをすると、圧力鍋ほどじゃないけど、蒸気がこもるから食材がやわらかくなりやすい。熱と圧力で食材のうまみをギュッと閉じ込めるわけだ」 
「へえ。で、何を作ったの?」 

 千夏が鍋の中をのぞき込む。 

「ビーフシチュー!」 

 湊は誇らしげにお玉を千夏の前に掲げた。 

「ブロック肉、ジャガイモ、ニンジン……。火が通りにくい材料が多いビーフシチューは、まさにダッチオーブンの強みをフルに活用できるメニューなのだよ!」 

 湊はさらに胸を張った。実際には、生成AIを使って「初心者でも失敗しないダッチオーブン料理」を調べながら作っていたのだが……。 

 湧がビーフシチューをまじまじと見つめる。 

「思ったよりちゃんとしてる」 
「その〝思ったより〟ってなんだよ」 

 詩音は「味見していい?」とスプーンで少しすくい、口に運んだ。 

「……おいしい。これ、お店で出せるわよ」 
「だろ?」 

 湊はさらに調子に乗った。 

「じゃあ火から下ろすぞ」 

 そう言って近くにあったタオルをつかみ、ダッチオーブンの縁を持った瞬間だった。 

「うわっっ!!」 

 湊は叫びながら鍋から手を離した。 

「熱っ! なんだこれ!」 

 千夏があきれた顔をする。 

「ちょっと、大丈夫?」 
「いや、熱すぎるだろこれ!」 
「そりゃそうでしょ。濡れたタオルで鍋を持っちゃダメだよ」 

 千夏は近くの乾いた布を手に取ると、ひょいとダッチオーブンを持ち上げた。 

「えっ⁉」 

 湊は目を丸くした。 

「はい、テーブルに置くね」 
「なんで持てるんだよ」 
「だって乾いた布だから」 
「いやいやいや」 

 湊は納得いかない顔をしている。 

「ひょっとして、千夏って熱さを感じない人なのか?」 
「何失礼なこと言ってるのよ」 

 千夏が湊にツッコミを入れた。 

水は空気よりずっと熱を伝えやすい 

「濡れたタオルで熱い鍋を持っちゃいけないなんて常識でしょ」 
「え、なんで? 濡れてるほうが熱くなさそうじゃん」 

 その言葉に、湧が反応した。 

「あー、そこ勘違いしやすいんだよな」 
「勘違い?」 
「水って、熱をやり取りするのが得意なんだ」 

 湊は首をかしげた。 

「いや、でも水で濡れているほうが冷たいだろ?」 
「冷たいのと、〝熱を伝えにくい〟のは別の話」 

 湧は空き缶を取り出し、そこに熱湯を注いだ。 

「じゃあ、実験してみる?」 

 まず乾いた布で缶を包む。 

「これなら持てる」 

 湊が受け取る。 

「あ、ほんとだ」 

 次に、同じ布を水で濡らした。 

「じゃあ今度はこれ」 

 湊が受け取った瞬間、 

「うわっ!」 

 反射的に手を離した。 

「熱っ!!」 
「でしょ?」 

 湧が笑う。 

「熱の伝わりやすさを表す数値を熱伝導率っていうんだけど、水は空気よりずっと熱を伝えやすいんだ」 
「空気より?」 
「乾いた布って、中に空気がたくさん入ってるんだよ。でも濡れると、その隙間が水で埋まってしまう」 

 詩音が続ける。 

「空気は熱を伝えにくい。でも水は熱を伝えやすい。だから熱が一気に手まで来るの」 
「なるほど……」 

 湊は赤くなった指先を見た。 

「つまり、濡れタオルは熱を通す道路みたいになってるってことか」 
「お、いい例え」 

 湧がうなずく。 

「金属のフライパンが熱くなるのも、金属の熱伝導率が高いから。逆に木とか布は低い」 
「じゃあ鍋つかみって、熱を止める道具なんだな」 
「正確に言うなら、熱が伝わりにくくする道具、かな」 

 湧が言うと、千夏が笑った。 

「ていうか、ダッチオーブンを使うなら、普通は革手袋を使うんだけどね」 
「……」 
「湊って、完全に初心者じゃん」 
「うるさい!」 

濡れタオルを首に巻くのはなぜ? 

 その時、少しのあいだ雲に隠れていた太陽が姿を現した。 

「あっつ……」 

 千夏が額の汗をぬぐう。 

「なんか急に暑くなってきた」 

 彼女はさっきの濡れタオルを首に巻いた。湊がすぐ反応する。 

「え、また濡れタオル?」 
「熱い鍋には危険。でも身体を冷やすには便利なの」 

 千夏はタオルを軽く振った。 

「ほら」 

 再び首に当てる。 

「あー、生き返る……」 

 湊も試しに触ってみる。 

「うわ、ほんと冷たい」 

 詩音が説明する。 

「水が蒸発するとき、気化熱っていう形で周囲から熱を奪うの。液体が気体になるにはエネルギーが必要。そのエネルギーを周囲から持っていく」 

 湧が補足した。 

「つまり、水が蒸発するとき、首の熱を一緒に持ち去っている」 
「だから冷えるのか」 

 詩音はカバンから細長いタオルを取り出した。 

「最近こういうのも多いよね」 

 水で濡らして振ると冷える〝冷感タオル〟だった。 

「へえ」 
「水をよく吸って、蒸発しやすい繊維を使ってるの。だから効率よく熱を逃がせる」 

 詩音はタオルを振ると〝パタン、パタン〟と風を切る音がする。 

「しかも、ぬるくなってもまた濡らして振れば冷たくなる」 
「まるで永久機関みたいだな」 
「水が必要だけどね」 

 千夏が笑う。湊は少し考え込んだ。 

「なんか不思議だな」 
「何が?」 
「同じ濡れタオルなのに、鍋では危険で、首では気持ちいい」 
「それが水のおもしろいところ」 

 詩音が言った。 

「水は熱を伝えるのが得意。でも、熱を奪うのも得意」 
「熱を運ぶのが上手いんだな」 
「うん。しかも、水は熱をため込むのも得意」 
「ため込む?」 

 湧が木のテーブルに肘をついた。 

「比熱が大きいんだよ」 
「比熱?」 
「同じだけ熱を加えても、水はなかなか温度が変わらない。逆に、一度温まると冷めにくい」 
「へえ……」 

水が熱を運びながら動いている

 湊は川の方を見る。夕方の光を受けた水面が、ゆっくり揺れていた。 

「だから海とか川って、急に熱くなったりしないのか」 
「そう。水は大量の熱を抱え込める。実はそれ、地球にとってものすごく重要なんだ」 

 詩音が続ける。 

「海は太陽の熱を吸収して、ゆっくり放出してる。もし水がすぐ温まってすぐ冷える物質だったら、昼と夜の気温差はもっと激しくなっていたかもしれない」 
「え、水って地球の温度調節までしてるの?」 
「かなりしてる」 

 湧がうなずく。 

「海流も熱を運んでるし、人間も汗で体温を調整してる。水って、熱を運ぶインフラみたいな存在なんだよ」 
「インフラって……水道みたいに言うなよ」 
「でも近いかも」 

 千夏が笑った。 

「地球全体で熱を運んでるんだから、超巨大インフラじゃない?」 

 川の風がまた吹いた。濡れたタオルがひんやりと首を冷やす。湊は空を見上げる。 

「水って、冷たいものだと思ってた」 
「実際には、熱を動かすものなのかもね」 

 詩音の言葉に、三人は少しだけ黙った。炭火の熱、鍋の湯気、首元の冷たさ、流れていく川の水。その全部の中を、水が熱を運びながら動いている。湊は、もう一度濡れタオルを触った。 

「……なんか今日、ひとつ賢くなった気がする」 
「今さら?」 
「うるさい」 

 千夏が皿を並べる。 

「ほら、せっかくなんだから食べよう。プロの作ったビーフシチュー」 

 湧がダッチオーブンのふたを開けると、再び白い湯気が立ち上った。やわらかく煮込まれた牛肉が、スプーンを入れただけでほろりと崩れる。 

「うまそう……」 

 湊は自分で作ったはずなのに、他人事みたいにつぶやいた。四人は木のテーブルを囲み、汗ばんだままスプーンを口に運ぶ。 

「あっつ」 

 千夏が笑う。 

「でもうまい」 
「熱いシチュー食べながら、首には冷たいタオルって変な感じだな」 
「同じ水なのに、役割が全然違う」 

 詩音が言った。 

 鍋の中では水が食材を煮込み、首元では水が熱を奪っている。同じ水なのに、働き方はまるで違う。川風が吹き、濡れたタオルがまた少し冷たくなった。

イラスト=ヒットペン

橋本淳司

はしもと・じゅんじ 1967年、群馬県生まれ。学習院大学卒業。アクアスフィア・水研究所代表。武蔵野大学工学部サステナビリティ学科客員教授。水ジャーナリストとして、水と人というテーマで調査、情報発信を行う。Yahoo!ニュース個人「オーサーアワード2019」、東洋経済オンライン2021「ニューウェーブ賞」など受賞。主な著書に『水の戦争』(文春新書)、『あなたの街の上下水道が危ない!』(扶桑社新書)、『2040 水の未来予測』(産業編集センター)など。

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