第8回 水の味が違うのはなぜ?
水──それは、私たちの毎日にあまりにも自然に存在しているもの。けれど、その正体は〝常識はずれ〟の物理化学的性質をいくつも持つ、不思議な存在だ。
ここは、とある総合大学。集まっているのは、サステナビリティ研究会(通称サス研)に所属するちょっとクセのある4人の大学生。
・アルバイト三昧の経済学部生・湊[みなと]
・行動力抜群の国際学部生・千夏[ちなつ]
・アニメオタクの文学部生(中国からの留学生)・陳 詩音[チン・シオン]
・コンピューターが大好きな工学部生・湧[ゆう]
彼らの何気ない日常の会話や出来事が、やがて〝水〟の奥深い世界への扉を開いていく。さて、今回の物語では──どんな水の不思議が顔を出すのだろう?
自分の持ち味は何?
三月の終わり。大学のラウンジの窓から、やわらかな光が差しこんでいる。冬の寒さを越えた植物たちが、新たな芽吹きの季節を迎えようとしている。それなのに、湊の頭の中には、就活サイトで見た言葉がまだ残っている。
『あなたの強みは何ですか?』
湧はプログラミングが得意だ。詩音は知識が豊富で、芸術的なセンスもある。千夏は誰とでもすぐに打ち解けるコミュニケーション力おばけだ。みんなにははっきりした持ち味がある。それに比べて、自分はどうだろう……。
「湊、ひさしぶり」
千夏、詩音、湧が立っていた。来週からはじまる新入生の部活勧誘にそなえて、久しぶりにサス研のメンバーで集まることになっていた。
「何ぼんやりしてるのよ」
そう言いながら、千夏はテーブルの上にペットボトルを「ドン」と勢いよく置いた。
「なにこれ?」
湊が聞くと、千夏は少し胸を張った。
「新潟の水よ。喉乾いてるでしょ?」
「新潟?」
「週末に帰省してたでしょ。うちの近くの超軟水。地元の人は『この水でお茶をいれるとぜんぜん違う』って言うんだよ」
湊はボトルを両手で持ち、いろいろな角度から眺める。当然だが、ただの水にしか見えない。
「水の味って、そんなに違うもの?」
ノートパソコンを開きかけていた湧が言った。
「比べてみると、わかりやすいかもね」
すると、向かいに座っていた詩音がバッグを開けた。
「比べる相手なら、ほら、ここにあるよ」
「え、詩音も?」
「これ、中国でよく飲まれているミネラルウォーター。ちょっと硬め」
千夏が目を丸くした。
「なんでそんな都合よく持ってるわけ?」
「昨日、中華街で見つけて、気になって買っちゃった。美肌にいいっていうからさ」
湊は思わず笑った。
「でも、三月とは思えない暖かさだからな。水を持ち歩く気持ちはわかる」

三種類の水でお茶を飲み比べる
湧が何かに気づいたように目を上げる。
「ってことは、大学の水も入れたら三種類になるな」
その一言で、場の空気が決まった。三人が同時に立ち上がる。
「部室で飲み比べね」
千夏がはりきった声を出す。
サス研の部室には電気ポットがある。それでお湯をわかせばいい。詩音がティーバッグをコップに入れた。注ぐ湯の量も、待つ時間も、なるべくそろえる。違うのは水だけ。しばらくしてティーバッグを引き上げ、コップを並べる。
最初に気づいたのは千夏だった。
「あれ、色が違う」
湊も身を乗り出す。
たしかに、新潟の水は少し明るい黄緑色、大学の給水機の水は緑色、中国の水の茶褐色に見える。
「味はどうなんだろう?」
湊はまず、新潟の水でいれたお茶を手に取った。コップを近づけると、ふわりと茶の香りが立ち上がる。ひと口飲む。舌に当たる感じがやわらかく、するりと喉に落ちる。渋みは強くない。
次に大学の水。飲み慣れた味だ。十分おいしいが、さっきより味の輪郭がはっきりしている。少しだけ渋みが前に出て、茶の感じがくっきりする。最後に中国の水。口に入れた瞬間、香りのあとにきりっとした渋みが残った。飲み込むと、わずかな重さのようなものを感じた。
「全然違うじゃん!」
千夏が言った。
「新潟、やさしい。大学、普通。中国、ちょっとしゃきっとしてる」
「その感想、まるで性格診断みたいだな」
湊が言うと、湧も吹き出した。
「水にMBTI(性格診断テスト)つけそう」
三つのコップを見ながら、湊はふと考えた。人にも、こういう違いがあるのだろうか。湊はもう一度、三つを順番に飲んだ。

なぜ味が違うのか?
比べるとたしかにわかる。同じティーバッグなのに、水が違うだけで味の印象がまったく変わる。
「なんでだろう?」
湊はコップを見つめたまま言った。
「水って、味はないよね?」
詩音はうなずいた。
「そこが面白いのよ。水そのものには目立つ味はない。でも、水はとても優れた溶媒なの」
「ようばい? 溶媒って、理科の授業で習った気がする」

湊は中学時代の記憶を手繰り寄せる。「溶質」は、液体にとけている物質。「溶媒」は、溶質をとかしている液体。「溶液」は、溶質が溶媒にとけた液全体。
「溶媒って溶液をつくる媒体ってことだよね」
「そう、何かを溶かして、運んだりする」
湧は手元の紙に、簡単な丸を三つ描いた。
「水の分子は、極性分子といって、分子の中で電気の偏りをもっている」
「電気の偏り?」
湊が繰り返す。湧は丸の片側に小さな+と-を書きこんだ。
「だから、水は電気を帯びた粒――たとえばカルシウムやマグネシウムのようなイオンとなじみやすい。同じ水に見えても、カルシウムやマグネシウムがたくさん溶けていれば硬水になるし、少なければ軟水になる」
詩音が補足する。
「たぶん新潟の水は軟水で、中国の水は硬水なのかも」
湧はコップの緑茶を指さした。
「お茶も同じで、葉っぱの味がそのまま舌に届くわけじゃない。苦味やうまみ、香りのもとになる成分が、水に溶けて、はじめて『味』になるんだよね」
千夏が感心したようにコップを見た。
「じゃあ水って、裏方ってわけ?」
「かなり有能な」
詩音が言った。
「血液も、ほとんどが水なのよ。栄養や酸素を体の隅々に運ぶのも、水が溶かして運んでいるから」
千夏が思い出したように言う。
「お茶だけじゃなく出汁[だし]も同じかも。昆布のうま味が水に溶けるから、あの味になるって聞いたことがある。たしか軟水のほうがうま味が溶け出しやすいんだっけ」
湊も続けた。
「洗濯もそうなの? 汗とか汚れが水に溶けるから落ちる」
湧がさらに言った。
「そうそう。それと同じことが半導体工場でも行われている。超純水で洗うことで、不純物を取り除くんだ」
詩音が落ち着いたトーンで言う。
「この前、本で読んだんだけど、水は多くの物質を溶かす性質があるのでユニバーサル・ソルベント――万能溶媒と呼ばれることがあるんですって」
千夏がすぐ反応した。
「強そう。必殺技っぽい」
「でも、油にはそんなに強くないけどね」
詩音がまじめな顔で言い、湧が肩を震わせた。
湊はもう一度、新潟の水でいれたお茶を飲んだ。たしかに、こちらの方が丸い。水の中に溶けているミネラルの量や種類が違えば、茶の成分の出方も少しずつ変わる。お茶の色や味の違いにはちゃんと理由があったのだ。
「じゃあ水って、宅配便みたいなものか」
「かなり優秀な宅配便だな」
「しかも文句言わずに24時間働く」
「そうね、体の中でもずっと働いてるし」
個性がなさそうで強烈な個性を持っている
透明な水は、何もしていないように見える。けれど本当は、溶かし、運び、混ぜながら、飲み物の味をつくっている。湊はそのことが少し不思議で、少しうれしかった。熱を運ぶときもそうだった。振動を伝えるときもそうだった。水はたいてい、前に出ない。目立たないのに、いちばん大事なところを動かしている。
「水って」
湊がぽつりと言うと、三人が顔を上げた。
「地味なくせに、やること多いな」
千夏が笑う。
「なんか失礼なこと言ってる」
「いやでも、ほんとにそうだろ。味がない顔して、味を決めてるんだから」
詩音はうなずいた。
「透明だから、忘れやすい。でも、ずっと何かをしているのよ」
湊はその言葉を聞きながら、三つのコップをもう一度見比べた。味の違いをつくっているのは、目立つ茶葉だけではない。その下にある水だ。
窓の外では、まだ固そうだった桜のつぼみが、光の中でわずかにほどけかけていた。 春もたぶん、こういうふうに来るのだろう、と湊は思う。いきなり世界を変えるのではなく、見えないところで少しずつ。
三年生になる春。就活のページに並ぶ「強み」という言葉を、湊は何度も思い出していた。人にはそれぞれ、はっきりした色や形がある。そういうものがないと、だめなのだろうかと考えていた。 けれど今は、少しだけ違う気がする。前に出るものだけが、働いているわけではない。溶かし、運び、混ぜながら、気づかれないところで何かを支えるものもある。
湊は最後にお茶をひと口飲み、静かにコップを置いた。同じ葉でも、水が違えば、こんなふうに表情が変わる。午後の緑茶は、さっきより少しだけやわらかく感じられた。それが春のせいなのか、水のせいなのか、それとも――自分の考え方が少し変わったからなのか。湊にはまだ、よくわからなかった。
イラスト=ヒットペン

はしもと・じゅんじ 1967年、群馬県生まれ。学習院大学卒業。アクアスフィア・水研究所代表。武蔵野大学工学部サステナビリティ学科客員教授。水ジャーナリストとして、水と人というテーマで調査、情報発信を行う。Yahoo!ニュース個人「オーサーアワード2019」、東洋経済オンライン2021「ニューウェーブ賞」など受賞。主な著書に『水の戦争』(文春新書)、『あなたの街の上下水道が危ない』(扶桑社新書)、『2040 水の未来予測』(産業編集センター)など。
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