第9回 食べもののなかの水
水──それは、私たちの毎日にあまりにも自然に存在しているもの。けれど、その正体は〝常識はずれ〟の物理化学的性質をいくつも持つ、不思議な存在だ。
ここは、とある総合大学。集まっているのは、サステナビリティ研究会(通称サス研)に所属するちょっとクセのある4人の大学生。
・アルバイト三昧の経済学部生・湊[みなと]
・行動力抜群の国際学部生・千夏[ちなつ]
・アニメオタクの文学部生(中国からの留学生)・陳 詩音[チン・シオン]
・コンピューターが大好きな工学部生・湧[ゆう]
彼らの何気ない日常の会話や出来事が、やがて〝水〟の奥深い世界への扉を開いていく。さて、今回の物語では──どんな水の不思議が顔を出すのだろう?
自由に動ける水と動きにくい水
4月の終わり。昼間の陽気が少しだけ残っていた。
「実家から?」
湊の部屋に届いた箱を、千夏が待ちきれない様子でのぞき込む。
「ああ。なんか食べものを送るって言ってたから」
ガムテープをはがすと、海の匂いが広がったような気がした。箱の中には、干物、昆布、漬物のパックなどがぎっしりと詰め込まれている。
「うわ、これ絶対うまいやつじゃん!」
千夏が袋に入った干物を持ち上げる。表面は乾いているのに、奥にはまだやわらかさが残っているようだ。

「焼こうか?」
「いいよ。あとで食べなよ」
詩音は宅配便の表示をマジマジと眺める。
「クール便じゃなかったの?」
「干物だから大丈夫だって」
「そう」
詩音は箱の中を見つめたまま静かに言った。
「傷みにくくなるのよね」
湊は一瞬きょとんとした。
「え?」
「生の魚なら、すぐに傷んじゃうでしょう?」
「……ああ」
言われてみれば、と思う。スーパーで買った刺身は、その日のうちに食べないと不安になる。
「干してあるから、じゃないの?」
「どうして干すと、傷まなくなるの?」
詩音はいたずらっぽく試すような目で湊を見た。湊はしばらく考えたが、結局言葉が出てこなかった。
「水だよ」
湧が沈黙を引き取るように言った。
「水?」
「食品って、水が多いほど傷みやすいんだ」
千夏が首をかしげる。
「でもこの魚、カラカラって感じでもないよね」
たしかに干物の表面は少ししっとりしている。
「そこがポイント」
湧は人差し指を立てた。
「食品の中の水って、全部同じじゃないんだよ」
「どういうこと?」
「動ける水とほとんど動けない水がある。たとえば、タンパク質や塩にくっついている水は、自由に動きにくい」
湊は思わず笑う。
「なにそれ」
「自由に動ける水と、何かにくっついてて動けない水」
詩音が言葉を重ねる。
「水がそこにある、というだけでは足りないのね」
「そう。使える水があるかどうかが重要なんだ」
湧がうなずく。
「ほとんどの微生物は、自由に動ける水しかうまく使えない」
「そうなの?」
湊はゆっくり干物を見直した。
「そうか、干物にするって、水を減らすってことか」
「やり方はいくつかあって、乾燥はその一つ。それから塩を使う」
「漬物ってそれ?」
「塩は水と結びついて、動きを縛る」
千夏が腕を組む。
「水をなくすか、動けなくするか」
「そのどっちか」
湧は軽く笑った。
なぜ干物はおいしくなるのか
湧は話を続けた。
「で、それを数値で表したのが水分活性ってやつ」
「出た、専門用語」
「食品に含まれる水分のうち、微生物が利用できる割合で、1に近いほど水が自由で、蒸発もしやすい。魚や肉、野菜、果物とかね。こういう食品は、微生物が繁殖しやすい。つまり傷みやすい。それが0.7くらいより下だと、多くの菌は増えにくくなる。だから保存性が高くなる」

湊は箱から昆布を取る。カサカサと乾いた音がする。
「これ、ほぼ動けない水しかなさそうだな」
「水分活性は、かなり低いね」
そのとき、湊は何かに気づいたような顔をした。
「でもさ、これ、ただ乾かしてるだけじゃないよな」
干物をもう一度見つめる。
「外だけ乾いてる感じじゃないし」
湧が少しうれしそうに笑う。
「おっ、気づいた?」
「え?」
「干物って、ただ放置して乾かしてるわけじゃない」
千夏が身を乗り出す。
「どうやってつくるの?」
「昼は干して、表面を乾かす。夜は重ねて寝かせることもある」
「なんで?」
「水は、乾いているほうに、引っ張られるように動くからね」
湊が息を飲む。
「中の水が外に出てくるのか」
「そう。それを何回も繰り返す」
千夏は干物を持ち直した。
「なんか……思ってたよりもずっと丁寧に作られてるんだな」
「しかも」
湧は少し間を置いた。
「この過程で、うまくなる。水が抜けると、細胞が壊れることで、酵素が働きやすくなって新しいうまみができる」
湊がつぶやく。
「壊れることで、うまくなるのか」
「そう。イノシン酸とか」
「椎茸にも似たようなうまみがあるよね」
詩音が続ける。
「なんか、保存のためっていうより、進化してる感じ」
「しかも乾かし方でも変わる」
湧が言う。
「天日干しのほうが、機械乾燥よりうまみが増えるって研究もある」
「へえ……」
湊はしばらく黙って箱の中を見ていた。干物、昆布、漬物。どれも、ただの保存食だと思っていた。けれどそこには、水の動きを操る工夫と、時間をかけて味を引き出す仕組みがある。水の動きを操ることで、腐敗を防ぎ、同時に味を深めている。
「これさ」
湊がぽつりと言う。
「全部、人が考えたんだよな」
「そうね」
詩音がうなずく。
「ずっと昔から、試して、失敗して、少しずつ見つけてきた」
「縄文の貝塚からフグの骨が出てるって話、あるよね」
湧が言う。
「危ないのに食べ続けて、安全な方法を見つけた」
「すごいな……」
千夏がつぶやく。
「そうやって残ってきたのが、今の保存食なのか」
詩音の声はやわらかかった。
「でも、知らないと、使わなくなってしまう」
ジャムが腐りにくい理由
そのとき、千夏が冷蔵庫の上を指さした。
「でもさ、それって乾いてるやつの話でしょ」
「ん?」
「もっとベタベタしてるのに、腐らないのあるじゃん」
そこには、いちごジャムの瓶があった。
「これ」
湊は思わず笑う。
「あー、それな」
「甘いし、水っぽいのに、なんで平気なんだろうね」
湧が軽く肩をすくめる。
「今度は逆方向だね」
「逆?」
「水を減らさないで、水を縛る」
「またそれか」
「砂糖が水をぎゅっと抱え込んで離さない」
湊はパンにジャムを塗る千夏の手元を見つめた。つやのある赤い層は、やわらかく流れそうで、どこかまとまりを保っている。
「見た目は水っぽいのに」
「中の水は、あまり動けない」
湧が言う。
「だから微生物が水を使えない」
湊は少しだけ考え込んだ。
「同じ水なのに」
「うん?」
「干物では抜かれて、ジャムでは捕まってる」
「いいところに気づいたね」

湧が笑う。
「それってさ」
湊は言葉を探す。
「水が変わってるのか?」
少し間を置く。
「それとも、周りに変えられてるのか?」
湧は答える前に、少しだけ考えた。
「たぶん、その区別が難しい」
詩音が静かにうなずく。
「水って、つながることで、自分の性質を変えてしまうんじゃないかな」
湊はその言葉を、ゆっくりと飲み込む。
干物も、漬物も、ジャムも。どれも同じ水を含んでいるのに、まるで違うものになっている。動ける水と、動けない水。その違いは、水そのものではなく、何と結びついているかで決まる。
湊はふと、思う。水は、どこにでもある。けれど、その姿は、いつも同じではないのかもしれない。
イラスト=ヒットペン

はしもと・じゅんじ 1967年、群馬県生まれ。学習院大学卒業。アクアスフィア・水研究所代表。武蔵野大学工学部サステナビリティ学科客員教授。水ジャーナリストとして、水と人というテーマで調査、情報発信を行う。Yahoo!ニュース個人「オーサーアワード2019」、東洋経済オンライン2021「ニューウェーブ賞」など受賞。主な著書に『水の戦争』(文春新書)、『あなたの街の上下水道が危ない』(扶桑社新書)、『2040 水の未来予測』(産業編集センター)など。
バックナンバー

