【連載】詩のとびら◎マーサ・ナカムラ——第14回/本当に求めるものはどこにあるのか ——高村光太郎「道程」をめぐって

第14回 本当に求めるものはどこにあるのか ——高村光太郎「道程」をめぐって

 昨年十月、友人に誘われて、元NHKアナウンサーの山根基世さんによる朗読会「太宰治『魚服記』を読む」を聴きに行った。山根さんの朗読は雨音のように、静かに耳に届く声でありながら、銅鑼のように心を震わせる。朗読会前に『魚服記』を読んでいたのに、山根さんの朗読を聴いて、「こんな話だったのか」とまるで初めて作品に出会ったような気持ちになった。
 朗読会後の講演で、山根さんは朗読にあたる際には必ず、作品の一文一文を自分なりに解釈し理解するという準備を踏まれるということを話されていた。朗読には読み手の解釈が如実にあらわれるものであるため、一文もおろそかにはできないということだった。
 イベント終了後、朗読の「朗」とはどういう意味なのだろうと友人たちと話し合った。黙読なら「黙って読む」、速読なら「速く読む」だが、朗読は「朗らかに読む」、「朗々と読む」では、どちらも違う感じがする。明るい声で読み上げることが朗読の要であるなら、読み手の解釈はむしろ明るい声を阻害するものであると思うからだ。あとで友人が調べた話によれば、「朗」には明らかにするという意味があるそうだ。朗読が「明らかにして読む」という読み方なら、先ほどの山根さんの朗読の準備の話につながる。山根さんの朗読によって『魚服記』は隅々まで明らかになり、わたしは「こんな話だったのか」と改めて気づいたのだ。

 わたしは詩を本当に読もうとするときには、必ず声に出して読む。作品を理解するより前に声に出して読むから、朗読ではなく、音読と朗読の間にある読み方だ。
 黙読はまるで、手袋をしたまま意味をつかもうとするかのようだ。黙って真剣に読んでいても、文字の上を意識は滑って、何度反芻しても意味をつかみとることができない。でも声に出して読むと、意識の手袋がはずれる。言葉のでこぼことした感触、湿度も感じ取れるようになる。その瞬間、わたしの詩を読む声は、音読から朗読の方にすこし近づく。確信に変わったとき、朗読という状態になる。
 音読から朗読に行きついたら完了なのではなく、朗読には先がある。音読が向く方向はばらばらで、試験、発表会、言語の上達など、その時々の目的に向かって人は音読する。朗読が向かう先には、いつも必ず、人の魂がある気がする。わたしは家でひとり朗読をしているとき、自分という花に水をあげているような気持ちになる。枯れても、また咲くと信じて水をあげつづけていると、ある日また新しい花が咲く。それならば朗読会とは、聴衆という花に水をわけあたえる機会なのかもしれない。

  僕の前に道はない
  僕の後ろに道は出来る
  ああ、父よ
  僕を一人立ちにさせた父よ
  僕から目を離さないで守る事をせよ
  常に父の気魄を僕に充たせよ
  この遠い道程の為め
             高村光太郎「道程(原形)」(下部に全文掲載) 

 高村光太郎の「道程」はとても有名だが、この作品には二つのバージョンが存在する。詩集収録版と、原形だ。原形は雑誌に掲載されたときのもので、詩集収録版が九行であるのに対し、こちらは百行にも及ぶ。まるで歌のように、詩集がそばになくとも胸に浮かんでくるのは九行詩の方だが、本を開いて何度も読みたくなるのは原形の方だ。「道程」の核心を抽出した九行詩は高村光太郎の達観を感じさせるが、原形は模索の時代を感じさせる。それぞれに達観篇、模索篇と名付けたくなる。

 わたしには、詩人と名乗りながらも、詩もなにも書けなくなった時期があった。パソコン、ノート、締め切り、何を前にしても、筆が全然動かない。もともと自分は弱い花だったのかもしれない。早くも枯れてしまったのかもしれないと思った。ただ、死にかけている自分の真心に水をあげる気持ちで、夜寝る前の朗読は続けていた。書けるようになるためではなく、ただ自分の心を癒すためだけに、好きな詩を声に出して読んでいた。
 ある日、会社から帰ってきて、夜にまた自分の本棚の前でぼんやりと立っていた。現代詩文庫の『高村光太郎詩集』が目にとまった。ぱらぱらとめくると、「道程」と目が合った。声に出して読んでみた。
 高村光太郎の詩は、理解するよりも前に、問答無用で読む人の心を水で洗うかのような迫力につねに満ちている。しかし「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」という言葉は、わたしには壮大すぎる。高村光太郎ほどの偉大な人物ならば、踏みしめた跡が道になるかもしれないが、これは高村光太郎の詩であって、自分の詩ではないと思った。
 電気を消して眠ろうとしたがなかなか寝付けず、「道程」の言葉を胸で反芻していた。高村光太郎には詩人としての才だけでなく、彫刻家としての才能もあった。その才能が、最愛の女性・智恵子の芸術をのみこんでしまったこともあった。彼にとっての「道」とは、どこにつながる道だったのだろう。それは間違いなく、穏やかな幸せや裕福な暮らしへと向かう道ではなかったはずだ。芸、美、善。いろいろな解釈ができる。おそらく、何を入れても正しい。読み手が本当に求めるものならば。
 僕の前に道はない、僕の後ろに道は出来る、と声に出してみる。すると気が強くなってきて、わたしの前に文学はない、わたしの後ろに文学は出来るとも言えるだろうかと考えた瞬間に、急にこの詩が明らかになった。わたしは文学を求めるあまり、文学へと繋がる道を探してしまっていた。わたしはもう、誰かが敷いた「文学」のレールを探して、その上を丁寧に歩くのではない。わたしの足跡がそのまま「文学」になるべきなのだ。
 その後、原稿は書けなくても、誰にも見せない日記ならば自分はいくらでも書けるということに気づき、わたしはまた書ける状態になった。書けなくなったのは、書く前から「文学」を書こうとしていたからだった。文筆家は誰しも、書いた跡がそのまま文学になる。
 この日から、わたしは「道程」を朗読するようになった。

 朗読すると、その作者の精神が自分に宿るような感じがある。朗読を終えたとき、静けさの中で、今まで気づかなかった風の音を聴くような気がするのは、まだ自分の中に、他人の、詩人の息遣いが残っているからなのかもしれない。
「気魄」は何にも屈することのない、強い精神力のことだ。「父の気魄」とは神の超越的な精神力をさしているのかもしれないが、この詩を読むときにわたしが思うのは、人間・高村光太郎の高潔な精神である。そして朗読するたびに、彼の精神が身に宿り、その気魄が明かりのように自分の中に灯るのを感じる。

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 道程(原形)  高村光太郎

どこかに通じてゐる大道を僕は歩いてゐるのぢやない
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
道は僕のふみしだいて来た足あとだ
だから
道の最端にいつでも僕は立つてゐる
何といふ曲りくねり
迷ひまよつた道だらう
自堕落に消え滅びかけたあの道
絶望に閉ぢ込められたあの道
幼い苦悩にもみつぶされたあの道
ふり返つてみると
自分の道は戦慄に値ひする
支離滅裂な
又むざんな此の光景を見て
誰がこれを
生命いのちの道と信ずるだらう
それだのに
やつぱり此が生命いのちに導く道だつた
そして僕は此処まで来てしまつた
此のさんたんたる自分の道を見て
僕は自然の広大ないつくしみに涙を流すのだ
あのやくざに見えた道の中から
生命いのちの意味をはつきりと見せてくれたのは自然だ
僕をひき廻しては眼をはぢき
もう此処と思ふところで
さめよ、さめよと叫んだのは自然だ
これこそ厳格な父の愛だ
子供になり切つたありがたさを僕はしみじみと思つた
どんな時にも自然の手を離さなかつた僕は
とうとう自分をつかまへたのだ
恰度そのとき事態は一変した
俄かに眼前にあるものは光りを放射し
空も地面も沸く様に動き出した
そのまに
自然は微笑をのこして僕の手から
永遠の地平線へ姿をかくした
そして其の気魄が宇宙に充ちみちた
驚いてゐる僕の魂は
いきなり「歩け」といふ声につらぬかれた
僕は武者ぶるひをした
僕は子供の使命を全身に感じた
子供の使命!
僕の肩は重くなつた
そして僕はもうたよる手が無くなつた
無意識にたよつてゐた手が無くなつた
ただ此の宇宙に充ちみちてゐる父を信じて
自分の全身をなげうつのだ
僕ははじめ一歩も歩けない事を経験した
かなり長い間
冷たい油の汗を流しながら
一つところに立ちつくして居た
僕は心を集めて父の胸にふれた
すると
僕の足はひとりでに動き出した
不思議に僕は或る自憑の境を得た
僕はどう行かうとも思はない
どの道をとらうとも思はない
僕の前には広漠とした岩畳な一面の風景がひろがつてゐる
その間に花が咲き水が流れてゐる
石があり絶壁がある
それがみないきいきとしてゐる
僕はただあの不思議な自憑の督促のままに歩いてゆく
しかし四方は気味の悪い程静かだ
恐ろしい世界の果へ行つてしまふのかと思ふ時もある
寂しさはつんぼのやうに苦しいものだ
僕は其の時又父にいのる
父は其の風景の間に僅ながら勇ましく同じ方へ歩いてゆく人間を僕に見せてくれる
同属を喜ぶ人間の性に僕はふるへ立つ
声をあげて祝福を伝へる
そしてあの永遠の地平線を前にして胸のすく程深い呼吸をするのだ
僕の眼が開けるに従つて
四方の風景は其の部分を明らかに僕に示す
生育のいい草の陰に小さい人間のうぢやうぢや匍ひまはつて居るのもみえる
彼等も僕も
大きな人類といふものの一部分だ
しかし人類は無駄なものを棄て腐らしても惜しまない
人間は鮭の卵だ
千万人の中で百人も残れば
人類は永久に絶えやしない
棄て腐らすのを見越して
自然は人類の為め人間を沢山つくるのだ
腐るものは腐れ
自然に背いたものはみな腐る
僕は今のところ彼等にかまつてゐられない
もつと此の風景に養はれはぐくまれて
自分を自分らしく伸ばさねばならぬ
子供は父のいつくしみに報いたい気を燃やしてゐるのだ
ああ
人類の道程は遠い
そして其の大道はない
自然の子供等が全身の力で拓いて行かねばならないのだ
歩け、歩け
どんなものが出て来ても乗り越して歩け
この光り輝やく風景の中に踏み込んでゆけ
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、父よ
僕を一人立ちにさせた父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程の為め

※本書中、現在では差別的で不適切と思われる語彙・表記がありますが、作品が書かれた時代背景、また、著者が故人であることを考慮し、原文のままとしました。

「道程(原形)」の原文は正字体が使われていますが、ここでは読みやすさなどを考慮し、漢字はすべて新字体にしています。原文に興味のある方は、『高村光太郎全集』第十九巻(筑摩書房)や、青空文庫で読んでみてください。

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マーサ・ナカムラ

1990年埼玉県生まれ。詩人。第五十四回現代詩手帖賞受賞。『狸の匣』(思潮社)で第二十三回中原中也賞、『雨をよぶ灯台』(思潮社)で第二十八回萩原朔太郎賞受賞。

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