【連載】嗚呼ワンコイン・パラダイス──どうしてこんなに愉しいんだろう!◎岡崎武志 第21回/三畳一間の小さな下宿

第21回 三畳一間の小さな下宿

 今年に入って続けざまに若い編集者と仕事をした。一人は1990年生まれの女性、もう一人はなんと2000年生まれでこちらは男性。後者を仮にQ君としよう。私が遅い結婚をして子どもを持ったのは1995年だから、どちらも娘、息子の世代である。 
 話をしていて世代間のギャップを感じるのが、あきれるというより面白い。Q君が言うには「歌の『神田川』なんかに、三畳のアパートというのが出てくるんですが、本当にあったんですか?」。 
 以下、会話。 
「もちろんあったし、今もあると思うよ」 
「それは風呂なしで、キッチンもない?」 
 重ねて「クーラーも?」と言うから、「そんなものあるわけないよ」。2000年生まれからすると「信じられない世界」になるらしい。たかだか五十年前の『神田川』が、江戸時代の長屋生活とあまり変わりないふうに映るようだ。「押入れもないから、女の子はファンシーケースを使っていた」と教えると、さっそくスマホで画像を検索していた。 
「見たことない?」 
「ありません」 
 ちょっとうれしくなってきた。「扇風機もなくて、天井からは裸電球が吊り下がって」と貧乏自慢のモードが入ってくる。1970年代に青春時代を送った年輩者の特権であろう。 

 カラオケで『神田川』に代表される70年代初頭のフォークソングを歌うと、曲は違うのに、同じ映像が流れる。木造モルタルアパートの二階、おそらく四畳半(畳の部屋)で長髪男子と女子(可愛い)がいて、ギターを弾いている。作ったインスタントラーメンを鍋から直接二人で分け合って食べる。目の前にはちゃぶ台。画像はちょっと退色したようなセピア調。少しやりすぎだがウソではない。 部屋にクーラーのある者など一人もいなかった。布団がなく寝袋で眠るやつも……。
 私は三畳間こそ経験はないが、四畳半に始まり、六畳、風呂なしワンルームなど、現代の『方丈記』で独身生活を送ってきた。とくにそれで不自由は感じなかったのである。 
 私の好きな音楽の嗜好がだいたいこのあたりの年代になるので、この貧乏だが微笑ましい四畳半カップルの映像をいったい何度見たことか。Q君とカラオケへ行って、ぜひこの映像を見せたいものだ。 四畳半は貧しい若者にとって過不足なく、意外に自由な王国だ。

 二十三年前に一戸建ての家を買い、二十一畳分の地下を仕事部屋兼書庫として、一日のほとんどをここで過ごす。しかし、実際に使っているのはベッド、パソコンを置いたデスク、二人用のソファがほとんどで、だいたいこれが四畳半におさまるぐらいの広さ(狭さ)。だから私は、いつでもそこ(三畳間、または四畳半)へ戻っていけるぞ、と思っている。 
 ちなみに松尾芭蕉に「四畳半」を詠んだ句がある。知ってました? 

秋ちかき心の寄るや四畳半

 これはどうも、ひと部屋に芭蕉門下が集まって連句をした時の作らしい。狭いがゆえに「心の寄るや」というのが、勘所だろう。 

財布をまた落とす 

 もともと、ひどくうかつで注意散漫なところがあり(小学校の通知表にも書かれた)、さまざまなヘマをしてきた。よく命が無事だったものだと思う。まず、忘れ物が多い。老齢を迎え加速した気もするが、いやいや昔からそうだった。家を出て、駅前まで来て財布やスマホを忘れてきたことに気づく、なんてことはざらである。筆記具や買った本をどこかへ置いてくるというのも、指折るとちょっと数えきれない。出すつもりで持って出た郵便物を投函し忘れ、そのまま持ち帰るのもよくある。穴の開いた靴下みたいな人生だ。
 今年三月半ば、財布をどこかへ落としてきたことに気づいたときはショックであった。家で紛失したとすればリビングで、徹底的に家探ししたがダメ。次に、その日立ち寄った場所(店)へいくつか電話したが答えはつれない。「申し訳ありません」と謝られても、いや悪いのはこっちなのだ。 

 財布には現金だけではなく、クレジットカードほか各種カード一式(七~八枚か)も挟まっている。これが難儀だ。進退窮まる事態に、うーんとしばし茫然。こういう時、人間は無力感に襲われますね。頭をよぎったのは、同月、某所にスマホを落としてきた件。駅前のブックオフで本を買って、レジで支払いをして(スマホでポイントを使う)、有料となったレジ袋を拒否して財布、スマホ、買った本数冊を抱えて外へ出た。これがまずかった。 アイテム数が多すぎる。
 あとで考えると、歩道を歩きながら背後でゴトリと鈍い音がした気がちょっとしたのだった。その時だったのである。抱えた手からスマホが滑り落ちたのは。この時も気づいたのは家で、やはり家探しをして(スマホの利点は家の電話から発信すると居場所が分かる)すぐにないと判断し、「その時」を思い出す。 

 すでに四、五十分は経っていただろうか。すぐさま自転車で駅前まで戻るが、さすがにもうないだろうとは思っていた。うまく善人に拾われて届けられていればいいが、などと甘いことも考える。「その時」の位置に半信半疑で近づくと「あった!」。幸運だったのは、ブックオフの隣が邸宅で、鉄の蛇腹の門扉が入口に据えられていた。スマホはその下に身を隠すように転がっていたのである。これが数十センチずれて歩道上にあれば、心なき人に拾われていたかもしれない。とにかくよかった。 

 三月半ばに財布を落としたと気づいたとき、まず頭をよぎったのはこの失策と、昨年春、映画『パーフェクトデイズ』を一緒に観た友人たちと、映画のロケ地をめざして江東区亀戸へ行った際、財布を紛失した騒動のことだ。この顛末についてはすでに書いた。財布はぶじ出てきたのである。しかし、各所へ財布の有無を尋ね、派出所へ届け出て、カード数種の停止(ひどく面倒である)とダメージは大きかった。 
 これが教訓とならず、一年後に同じ失敗を繰り返す私はいったい何だろう。とにかく届け出ることが先決と、すでに二、三時間が過ぎていたが、有人の交番(無人多し)を検索し自転車で出かけた。自宅から自転車で十五分ぐらい離れていたが、駅前なので有人であることは知っていた。警察官に事情を話しつつ、細々したことに遺失届に記入。亀戸では出てきたが、そうそう幸運は期待できない。墨を飲んだような気分で財布の形状や中身、現金の額などを書きこんでいると、それを見ながら警察官がパソコンで検索している。落とした場所が立川市の東から国分寺の西と限定されていたせいか、書きこみが終わる前に「ああ、ありましたよ。届いているようですね」と言うではないか。 

 モノクロ映画が途中からテクニカラーに変わったように私は薔薇色に包まれた。「ありがとうございます」と繰り返し、翌日、所轄の警察署で財布はわが手に戻った。重なる失策と私のうかつぶりを知る妻に言わせれば「運がいいのよ。でもそうそう幸運は続かないよ」。そうなのだ。守護霊もいいかげん、イヤになっていることだろう。今回はジャンパーのポケットに入れたのがよくなかった。拾われた場所は途中の急坂で、クイクイと力を入れて自転車のペダルを漕いでいる際中に、圧迫された腹とジャンパーからずり上がり、落ちてしまったらしい。 
 教訓はただ一つ。ジャンパーのポケット(深ければいいが)に財布は入れるべからず。しかし、またやっちまうんだろうな。人生には靴下と同じく穴ぼこがたくさん空いている。思い浮かぶ教えは「しかし、まだ命があるではないか」。 

近くて遠いヨコハマへ 

 五月十三日、一人で横浜へ行ってきた。十八日までが開催期限の「大岡信展」(県立神奈川近代文学館、以下カナキンブンと表記)を見るためだ。同館からは招待券が毎回送られてくる。意欲的な企画を組み、毎回触手を動かされるがちょっと遠いなあ、と二の足を踏む。 
 私の最初の横浜探訪は古本屋巡りで、雑誌のライターになってからは取材で何度も足を運んだ。古本屋の数もずいぶん減って、用事もなしにわざわざ出かけることはなくなっていた。しかし、年に一、二度、行くといつもいい気分になる。海に向かって開けた港湾都市で、レトロ建築もたくさん保存され歩いて楽しい街である。 

 カナキンブンがあるのは、観光名所の一つ、港の見える丘公園の一角。鉄道の最寄り駅はなく、どこからも少し離れている。港の見える丘公園はみなとみらい線元町・中華街が最寄り駅。ただ、私はどうも「食」のボルテージが充満する観光客にまみれるのがイヤで、別のアプローチを取る。 
 いつも使う手は根岸線石川町駅で下車、元町通り商店街を抜け、外国人墓地脇の昼なお小暗い見尻坂をえっちらおっちら上り、横浜地方気象台を左手に公園へというコース。元町通りはご承知の通り「ハマトラ」発祥の地で、両側にファッション、宝飾、家具、その他私が身に着ける可能性のない高級店がずらり並ぶ。車道は石畳、ところどころにベンチが配置され、「しまむら」も牛丼店もない異世界である。 
 犬を散歩させている人多し。みな「ハマトラ」でさりげなく飾り、お金の匂いのする人種である。連れている犬も高級そうで、食費、トリマー代、医療費などあきらかに私などより金がかかっている感じだ。生命保険も私より高額か。 

ハマトラを生んだ元町
横浜のシンボルのひとつ

 石川町駅は高架で、ホームの両端に出入り口あり。この日、磯子駅側から降りたのだが、線路の向こうにトンネルが見えた。地図で確認すると「イタリア山」という小高い山が確認できた。ここに庭園と外交官の家が。そうか、なるほど。横浜は昔から居留地があり、各国外交官や領事官、商人や司祭などが住みついていた。そこで、いつも通る外国人墓地脇の道より一本北、元町通りをそのまままっすぐ抜け、港の見える丘公園を船に見立てれば舳先となるフランス山からアクセスすることにした。イタリアからフランスでござるぞ、マドマーゼル、ウィムッシュ。 

JR石川町駅のホーム
付近にはミッション系の女子校が数多くあることでも有名
トンネルの上はフランス山

 つづら折りのきつい階段を上りきってフランス山。フランス大使館があった場所で、洋館の残骸が保存されている。噴水のある広場を抜けるといきなり目の前に横浜の海が広がる。埠頭やベイブリッジも見える。「わあ、海だ!」とこれは心の中で叫ぶ。観光客がたくさん。簡易椅子に腰かけ、絵を描いているご老体も散見できる。そして、ちょうど庭園はバラの盛り。こんなに多種のバラがあるのか、と驚くほど色とりどりに咲き誇り、インスタ映え撮影隊が上気しながら携帯の向こうで笑顔を作る。 
 傍らを横浜インターナショナルスクールらしきお上品な小学生が、ランドセルを揺らせて駆け抜ける。彼らは小学生ながらかかった費用は、すでに私の生涯より高額で(もういいか)。 

神奈川近代文学館

「言葉を生きる、言葉を生かす」と副題のついた「大岡信展」は楽しく見た。本業の詩以外に古典詩歌の研究、美術評論など多方面に爪痕を残した。とくに私は『朝日新聞』に長期連載された「折々のうた」から多大な恩恵を受けている。今回の展示でも、同連載の生原稿とそれを綴じた大部な合冊など、執筆の舞台裏がうかがい知れた。読者が律儀に新聞連載を切り抜いて作った豆本も展示され、これはうれしかったろう。 
 じつは私、大岡信さん(ここから「さん」付)にインタビューをしている(雑誌『旅』)。『詩集 旅みやげにしひがし』(集英社)を出された時で、詩集で著者インタビューができるのはライターとしての私の強みであった。そのときもらったサインをアップしておく。私は著作をちゃんと読んでいるので話もはずんだが、一つエピソードを。 

 大岡さんは調布市の深大寺周辺に長らく住んでいたが、病気をされて都心のマンションへ移ったばかりだった。新築売り出し中の物件だったのだが、その売りとして「あの『折々のうた』の大岡信さんも」と使われたとのことだった。大岡さんは強く抗議もしなかったと、あの童顔で苦笑いされていた。 
 最初の短い詩を引いておく(「ホテルといふところ」)。 

いつも どこかで 
水が流れてゐる、 
人間がながれてくることもある。 
流れようとして声が 穴に 
詰まつたきりになつてゐる 
小部屋もある 

タイトル、本文イラスト、写真=筆者

岡崎武志

おかざき・たけし 1957年大阪生まれ。立命館大学卒業後、高校の国語教師、出版社勤務を経てフリーライターに。「神保町ライター」の異名を持つ。近著に『憧れの住む東京へ』(本の雑誌社、2023年)、『古本大全』(ちくま文庫、2024年)、『ふくらむ読書』(春陽堂書店、2024年)などがある。

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