【連載】子どもたちと話したい読書のこと◎島田潤一郎——第9回/運がいい

第9回 運がいい

 自著のなかでも何度も書いてきたことだし、講演会では必ず口にすることであるが、ぼくは親しかった従兄が急逝し、そのことがきっかけで出版社をはじめた。 

 それまで、編集者になりたいと思ったことはなかったし、会社を経営したいと思ったこともなかった。 
 が、転職活動がうまくいかなかったということと、かなしんでいる叔父と叔母を励ましたいという気持ちから、ひとりで本をつくるという、それまで考えたことのなかった道を選ぶことになった。 
 出版社の経営が上手くいく、とはまったく思っていなかった。本音をいえば、それなりの本を二、三冊つくることができれば、転職期間中のアリバイになると思っていたし、その自分がつくった本を手に、また転職活動をすればいいだろう、ぐらいに思っていた。 

 いま読んでいる津田左右吉の『文学に現はれたる我が国民思想の研究』という本のなかに、武士は人を殺めるからこそ、自分の命をも軽んじるのだ、というようなことが書いてあったが、ぼくはそのころ、自分の命もどうでもいいぐらいに思っていたのだ。より、ほんとうのことをいえば。 

 自分に編集者としての才能がまったくないとは思わないが、それよりもさまざまな人との出会いによって、会社は幸先の良いスタートを切ることができた。 
 その人たちの名前は具体的にいえば、和田誠さんであり、荒川洋治先生であり、高橋和枝さんであり、デザイナーの櫻井久さんであり、JRCの後藤克寛さんであり、古書善行堂の山本善行さんだ。 
 彼らは自分の名前なり会社なりを前面に出して仕事をしている人だから、ここで名前を挙げたが、彼ら以外にも、インターネット上に名前を出されたくないであろうたくさんの書店員さんや、読者、友人の存在がある。 

 なかでも、プラプラしていた二十代のぼくを無言で支えてくれた両親には、満腔の感謝の気持ちがある。 
 そんなわけのわからない本なんて読んでないで、早く就職しなさい。 
 そういわれてしまったら、いまのぼくはいないのだ。 

 島田くんは運がいいから。 

 もう十年前ぐらいだろうか、ぼくの尊敬するある人が、ぼくのいないところでそういっていた、と居酒屋の席で耳にした。 
 そのときは、心外だ、ぐらいに思っていた。 
 ぼくは若いころに難しい文芸書もがんばって何冊も読んだし、出版社をはじめてからは、歯をくいしばって書店営業をした。人より何倍も努力したからこそ、会社を続けられているのだ、とそのときは思っていた。 
 でも、それから二、三年も経つと、自分は運がよかった、と思うほうがしっくりとくるようになった。 

 まず、両親がぼくを無条件に応援してくれた。 
 それは心的な面と、資金的な面のふたつにおいてであり、ふたりの支援がなければ(結局、両親から四〇〇万円の資金を借りた)、ぼくは株式会社をスタートさせることはできなかったろう。 

 次に、会社をはじめた時期がよかった。 
 ぼくが夏葉社をはじめた二〇〇九年はみながスマートフォンをもちはじめ、SNSをはじめたころであった。それは著名人や、文章がうまかったり、メディアをつかいこなせる人間以外の無数のひとたちが、ウェブという公共スペースで力を持ちはじめたころだった。 
 それまでは、大きな資金や、特別なコネクションをもっていなければ、商品をつくっても、それを宣伝する術がほとんどなかった。が、二〇〇九年には、毎月のスマートフォンの料金を払い、書店員さんと読者が「よさそうだな」と思う本をつくることさえできれば、ぼくひとりが暮らせる分ぐらいの収入を得ることができた。 

 最後に、ぼくは書店営業も、宣伝の文章を書くことも、おそらく、ほかの人よりも上手くやることができた。 
 その能力は若いころに、営業の仕事をしてきたからであるし、大学時代や二十代のころに毎日、一所懸命小説を書く努力をしてきたからだ、とある時期までは思っていた。 
 それは本当のことであるし、その修行期間がいまの仕事にものすごく役立っているというのも本当だ。 
 が、より本当のことをいえば、ぼくは小学校一年生のころから文章を書くことが好きだったのであるし、営業をするということもきっと、ほかの人よりも得意なのだ。 
 そのことを、ぼくは「運がいい」と捉えているのだ。 

島田潤一郎

しまだ・じゅんいちろう 1976年、高知県生まれ。東京育ち。日本大学商学部会計学科卒業。アルバイトや派遣社員をしながらヨーロッパとアフリカを旅する。小説家を目指していたが挫折。2009年9月、夏葉社起業。著書に『父と子の絆』(アルテスパブリッシング)、『長い読書』(みすず書房)などがある。

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