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【連載】嗚呼ワンコイン・パラダイス──どうしてこんなに愉しいんだろう!◎岡崎武志 第15回/「コロッケの唄」は幸運を運ぶ

第15回 「コロッケの唄」は幸運を運ぶ

 NHKラジオ第一(AM放送)の「ふんわり」という帯番組の木曜を愛聴している。日替わりでパーソナリティが替わり、NHKアナがサポートするトークバラエティ。基本はパーソナリティの喋りと音楽、そしてゲストとのトークというシンプルな構成。タレントたちが大挙してガチャガチャと隙間なくしゃべり合うテレビ番組が横行するなか、余白を生かした音だけの世界で、しばし聴き入り、ほかほかした気分になる。 

 木曜は六角精児の担当で日常を報告するとともに、六角好みの楽曲がたくさんかかる。彼は音楽にやたら詳しい。カントリーが好きらしいが、日本の古いフォークソングにも精通し、私の趣味に合っている。その回ごとにテーマが設けられ、「食べ物」の日にいきなり流れて心をつかまれたのが『コロッケの唄』。五月みどり歌唱で、作詞・作曲がハマクラさん(浜口庫之助)。昭和37年発売の曲だが、じつはこれはリメイクで、元歌は大正期に作られ人口に膾炙した同名の曲があった。私が知っているのはこちら。「♪今日もコロッケ 明日もコロッケ これじゃ年がら年中 コロッケ コロッケ」というサビの部分のみ踏襲され、あとはハマクラさんが改変した。 

※JASRAC(出)許諾番号2409669-401号

 元歌の作詞は益田太郎冠者(1875~1953)。作曲者は不明。益田太郎冠者は大変な人で、三井物産創業者の次男として生まれ、親の跡を継ぎ実業家として活躍するほか貴族院議員の地位を得た。益田は多くの喜劇を世に送った劇作家であり、新作落語としてもはや古典化している「宗論」「かんしゃく」の作者でもあった。 

 くわしく書き出すときりがないが、浅草オペラや喜劇にもかかわり、帝国劇場のオペレッタ「ドッチャダンネ」の劇中歌として作られたのが「コロッケの唄」。これが昭和初年に日本全国へ流布し、田谷力三[たや・りきぞう]の歌唱を得て流行歌となった。当時、コロッケは新しい洋食だった。 

 長い前置きになりましたが、ハマクラ版はこれを若い夫婦の日常のスケッチとし、愛らしくも切ない名曲に仕立て直した。ちょっと引用してみる。サビは前述のようにすべて「今日もコロッケ 明日もコロッケ これじゃ年がら年中 コロッケ コロッケ」だ。 

「こんがりコロッケにゃ 口もない 目もない 手もない 足もない/だけどコロッケは 知っている あなたとわたしの あの頃を」が一番。 
 四番が「コロッケみるたび 想いだす あなたと二人の 晩ごはん/何はなくとも 幸福が 胸にあふれた あの頃よ」 

 つまり、貧しい若夫婦の幸せのシンボルとしてコロッケが歌われている。余計な解説は不要。誰にでも伝わるささやかだが実質を持つ幸福感である。まだ「かまきり夫人」になる前、二十三歳の五月みどりの歌唱も愛らしい。そして大衆的なコロッケがよく似合う。フランク・キャプラに「ポケット一杯の幸福」という人情喜劇があったが、コロッケには「コロッケ一個の幸福」があるのだ。 

 今回特筆すべきは、初ギャンブルの体験。私は六十七年の人生で、競馬、競艇、競輪などギャンブルにいっさい手を出したことがない。三十過ぎてから教職の道を捨て、大阪から東京へ何のあてもなしに出てきたのが最大のギャンブルで、その際に賭ける力はどうやら使い切ったようだ。 

 もと障害レースの騎手で、引退後に競馬界を舞台に次々とミステリーを発表したディック・フランシスの同じ作品を、五度、六度と読み返すほど熱中したのに、競馬をやろうとは思わなかったのである。だから、ネットや場外でもあらゆる馬券、車券などを買ったことはなかった。 

「京王閣で競輪を」と考えたのは、つげ義春『無能の人』の中に、稼ぎのないダメ夫を持つ妻が、京王閣の競輪場で働く(車券売り場の窓口)シーンがあるからだ。京王閣自体には、毎年のように開かれる大規模骨董市へ行った経験はあるものの、あくまで足を踏み込んだだけだった。 

 知り合いの編集者にギャンブル狂(「ギさん」としておこう)がいて、相談すると「いいですよ、一緒に行きましょう。あれこれ教えますよ」と言ってくれて、「いざ鎌倉へ!」と出陣することに。最寄り駅の京王多摩川駅改札で待ち合せ。住所は調布市多摩川四丁目。多摩川がすぐ目の前を流れ、この川を遡れば、お隣の府中市には競艇場、競馬場もある。後者はユーミンが『中央フリーウェイ』で歌った「右に見える競馬場」だ。 

 10月28日(月)、ゴールドカップレースの三日目。ゲートをくぐり(入場は無料だった)、競輪新聞を買い、男たちの旅路の奥へ奥へ。フードコートとは呼び難い飲食店が並ぶエリアで、まずはおでんと肉豆腐(美味)をつまみ、生ビールで唇を濡らしながら、ギさんから簡単な仕組みと狙い処を教授してもらう。 

 周りを見渡すと、ぬかるみをくぐったような人生の先輩たちが大勢を占めるが、若い人や、それに女性客もけっこう目についた。乳母車を押す母と祖母みたいな一行もいて、けっこう人種的にバラエティに富んでいる。これは意外だった。ギさん曰く「昔は(三十~四十年前)は落ちぶれた男たちの世界で、雰囲気も荒れていた。あちこちで罵声が聞こえ、野次もえげつなかったですよ」とのこと。 

初めての競輪観戦。観客はそう多くない 

 ガソリンを入れて、戦場となるコースを金網越しに見物する。思ったより狭い。金網にへばりついて、ひいき選手を応援したりやじったりしているのは野球と同じだ。競馬は馬、競艇はエンジン次第のところがあるが、競輪は直接選手の肉体と直結したゲームだから、違う迫力がある。接触して選手が転倒したレースもあった。危険はスリルを呼ぶ。そこらあたりが競輪の醍醐味か。 

 私が想像していた、煙草の脂[やに]で真っ黒な歯、無精ひげ、濁った黄色い目、だぶだぶのズボンに雪駄ばき、というようなステレオタイプのギャンブルおじさんはいなかった。渋谷を歩いているような若い男性のグループさえいた。「客筋が変わりました」と隣りでギさんが呟く。燻されて、酸っぱい匂いを立てた男たちがいた時代が懐かしいようだ。 

 いくつかレースを観戦して、いよいよ車券を買う。10レースと最終の11レースに絞って、ギさんが推す堅いところを合わせて500円購入。狙った二人の選手がともに3着以内であれば的中という「ワイド」なる車券で、なんとこれが当たって500円以上の払い戻しとなった。これで元は取れたわけである。 

これが車券。運良くワイドが当たり、これで「ボクは競輪で負けがない」と言い張れる 

 ギさんは「私ははずしました。こんなもんです」と言う。これで病みつきに……とはならないが、我が家から自転車で行ける距離に立川競輪場がある。これまで門前を通り過ぎるだけだったが、いつか門をくぐってみようと思っている。なんでも経験である。やったことのないことに挑戦するだけで、自分の中で凝り固まったものが少しほぐれる気がする。 

 毎回登場する六十代男性お散歩トリオMMOは、京王線初台駅近くにある立ち食いそばの名店「加賀」へ行こうと計画。中央線阿佐ヶ谷駅前と渋谷を結ぶ京王バスに乗車、のんびりと揺られながら初台駅前着。ところが、何としたことか「加賀」は休み。土日祝が休業で、この日は月曜だったが前日の「文化の日」(11月3日)の振り替え休日だった。この一帯、東京オペラシティの城下町で、山手通りを越えたら新宿だ。オフィス街を抱える休日の街であった。 

 近隣の飲食店はみな休店。仕方なくぶらぶらと不動通商店街へ。ここならどこか開いているだろう。いくつか飲食店をチェックし、「松乃家」というそば屋へ入る。近所では名店らしく、テーブル席はすぐ埋まり、なんとか確保した四人掛けで、私は「かきあげそばと山菜ごはん定食」(1050円)を。そばも汁もうまかった。食後、甲州街道を目指し住宅街を南下。けっこう高低差がある。なだらかな坂を作る路地脇に閉業した銭湯があった。どうやら、ここは暗渠となった川が流れていたらしい。 

「松乃家」の「かきあげそばと山菜ごはん定食」 

 大量に水を流す銭湯は川のそばに建つケースが多い。しかもその先、車止め鉄柵があった。これも暗渠のサイン(重量に弱い)。さらにマンション前に「旗洗池[はたあらいいけ]」という立派な石碑を発見。揮毫は東郷平八郎。あとで分かったが、ここいら一帯、かつて水田で、下落合あたりから続く和泉川が流れていた。昭和39年の東京オリンピックを控えた再開発で埋め立てられ住宅地化したらしい。 

 バス通りは「水道道路」と呼ばれ東西を横断するが、これも西新宿にあった淀橋浄水場と沈澄池[ちんちょうち]から水を引っ張る役目を果たしていた。少し歩いて、いろんなことに関心を持てば、地層に埋まった歴史が見えてくるのだった。 

 このあと一行は甲州街道と並行する玉川上水緑道をたどり明治神宮の森を散策した。立ち食いそばの名店「加賀」が休業だったために、予定になかった散歩ができて、これを怪我の功名と呼んでいいものか。とにかく秋晴れの爽やかな半日散歩であった。 

この日のお散歩トリオMMOのゴールは明治神宮 

タイトル、本文イラスト、写真=筆者

岡崎武志

おかざき・たけし 1957年大阪生まれ。立命館大学卒業後、高校の国語教師、出版社勤務を経てフリーライターに。「神保町ライター」の異名を持つ。近著に『憧れの住む東京へ』(本の雑誌社、2023年)、『古本大全』(ちくま文庫、2024年)、『ふくらむ読書』(春陽堂書店、2024年)などがある。