「翻訳」という魔法を核とした歴史ファンタジー
バベルの塔とは、『旧約聖書』によると、人間が天にも届く塔を作っているのに怒った神が、一つだった言語を分けたため、人間たちは混乱におちいったという、人間の傲慢を戒める逸話とされている。
十九世紀初頭、大英帝国が覇権を握る世界がこの小説の舞台。だが歴史と違うのは、その覇権は言語翻訳の魔術の力によることだ。その魔術はバベルという翻訳研究所で作られていた。
清朝中国で唯一、欧米諸国との貿易港がもうけられていた広東[カントン]でコレラが蔓延。下町に住む少年は母を亡くし自分も死にかけていた。だが突然やって来たラヴェル教授と名乗るイギリス人に救い出された。
ラヴェル教授は言う。おまえは私の後見のもとイギリスで言語を学び、オックスフォード大学に入学するのだ。どこも行くあてのない少年は従うしかなかった。そして言われるまま自分の名前を捨て、「ロビン」というイギリス人風の名前を名乗るようになった。
ロビンはラヴェル教授の保護の下、英語・ギリシャ語・ラテン語などのほか中国の公用語である北京官話を学んだ。そしてオックスフォード大学へ入学。ロビンは同じ一年生たちと知り合った。インドのカルカッタ出身、イスラム教徒人の男子学生ラミー。中米フランス植民地から独立したハイチ出身の女子学生ヴィクトワール。イギリス貴族の女子学生レティ。四人に共通しているのは白人男子でないということ。イギリスの名門オックスフォード大学に本来ならば入学できないはずだった。
そのオックスフォードにバベルはあった。高い塔の建物、世界各国の言語を研究し文献を所蔵していた。だがバベルの研究で、オックスフォードがイギリスで大きな権力を持つほど重要なのは、言語翻訳を使った魔術だった。例えば、銀の棒に中国語で「はっきりしない、実体のない」ことを意味する「無形(ウウシイン)」と彫り、もう一方の面に英語で「不可視」を意味する〝invisible(インヴィジブル)〟と彫る。そして中国語と英語を深く知り使いこなすことができる者が意思を込めて二つの言語を唱える。すると、その術を向けられた存在は見えなくなる。
このイギリスでは蒸気機関ではなく、魔術のこもった銀の棒が社会や産業を支える基盤であり、鉄道や工場を動かし、産業革命を起こしていた。ロビンたち外国から来た学生は、この魔術を習得し、さらにバベルで母語や学んだ言語を使い、新しい魔術を産み出すことを期待されて、オックスフォードに送り込まれたのだった。
ロビンは、ある夜、バベルから銀の棒を持ち去る集団に出くわす。その中にロビンは自分そっくりの男を見つけた。その男はグリフィンと名乗り、おれはおまえの兄だ、そしておれたちの父親はラヴェル教授だ、と言う。グリフィンは中国の澳門(マカオ)で生まれ、ロビンと同じようにラヴェル教授にイギリスに連れてこられ、オックスフォードで言語を学んだが、死を偽装して逃げた。グリフィンといっしょにいた集団はヘルメス結社といって、反バベル・反大英帝国の活動をしていた。彼は言う。バベルはイギリスの植民地支配のための機関だ、と。
やがてロビンたち四人の同期生は大学での学業を終え、バベル研究員となった。最初の海外勤務地はロビンの故郷の中国・広東。イギリスが進めてきた中国へのアヘン輸出を、大臣の林則徐が厳しく断ってきたので、再交渉するためだった。だがイギリス側は中国人を対等な交渉相手とは見なしていなかった……。
この物語には植民地主義・イギリスが中国に対して行った自由貿易帝国主義、自文化中心主義、ラヴェル教授に象徴される他民族への父権主義的支配など、十九世紀から今も残っている問題が描かれている。中国・インド・ハイチと、ロビンと同期生たちの故郷の苦難を思うと胸が痛む。だが言語・歴史・魔術と、心に刺さる魅力がこの物語にはある。

1996年中国・広東省広州市生まれ。四歳の頃にアメリカに移住。ケンブリッジ大学で中国研究の修士号を、オックスフォード大学で現代中国研究の修士号を取得。2018年のデビュー長編The Poppy Warでコンプトン・クルック賞を受賞。2022年の長編『バベル オックスフォード翻訳家革命秘史』でネビュラ賞長編部門とローカス賞ファンタジー長編部門を受賞。同書は2024年の中国・華語科幻星雲賞翻訳部門、百万釣魚城科幻大賞国際小説部門も受賞した(陳陽訳)。

さわ・いずみ 1968年、神奈川県生まれ。東海大学大学院博士課程前期修了。専攻は中世アイスランド社会史。出版社勤務を経て司書。公共図書館・博物館図書室・学校図書館勤務のあと、現在介護休業中。アイスランドに行きたい毎日。写真は、今は亡き愛犬クリス。
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