第16回 団地のエレベーター
ぼくの実家がある団地は十三階建てである。
横に細長く、フロアの端から端まではたぶん、100メートルくらいある。
小学生のころはしょっちゅうそのあいだを駆け抜け、階段を三段抜かし、ときには六段抜かしで飛び降り、鬼役(刑事役のときもあった)の同級生から無我夢中で逃げた。
逆にぼくが追手になったときは階段の陰に隠れて、あるいは静止したエレベーターのなかで、同級生たちが廊下を駆け抜ける音にじっと耳を澄ませた。
当時は、小学校に通う子どもの九割近くが団地から通っていた。ぼくが暮らしていた団地。五階建てのエレベーターのない古い団地。奇数の階にしかエレベーターが止まらない不思議な団地。ワンフロアに五十世帯もの家族が住むマンモス団地。
小学校は団地の目の前に建っており、朝の八時になると、エレベーターのなかにはいつもランドセルを背負った小学生の姿があった。
もちろん、これから出勤するサラリーマンや、パートタイムで働きに出るひとたちもそのなかにいた。
いまでこそ自転車は一階の駐輪所に置くひとのほうが多いが、ぼくが小学生だった1980年代は、防犯のためなのか、ほとんどのひとたちが自分の住むフロアにまで自転車を運び上げていた。ぼくも八階まで自転車を運んだし、父も、母も、エレベーター乗り場の前のがらんとしたスペースに自転車を置いていた。
でもそのせいで、朝のエレベーターは毎日ひどい混雑だった。ぼくが八階から乗ろうとすると、たいていそこには一台の自転車があった。ひどいときには縦160センチ、横105センチのスペースに二台の自転車とふたりの人が先客としており、ぼくはその隙間に身体を押し込んで、「閉」のボタンを押さなければならなかった。
さらに、そこからひとりふたりのひとが乗り込んでくるのが、当時の日常だった。だれも「すいません」とも、「乗ります」ともいわず、当たり前のように人と人とのあいだに入り込み、顔を伏せながらエレベーターが一階に到着するのを待った。
一度だけだが、三台の自転車がエレベーターのなかに並んだこともあった。そのときぼくは先客として自転車にまたがっていて、もうひとりはたしか、中学生か高校生だったように思う。二台の自転車だけでじゅうぶんに狭かったが、六階から乗り込んできたおばさんは「大丈夫です。経験者です」というような顔でハンドルを右に左に細かく動かし、彼女の自転車の前輪をぼくたちの自転車の前輪に押し当てることで、無理矢理に自分の場所を確保した。
驚いたが、それを常識はずれだとも感じなかった。
あれから四十年の月日が経ち、エレベーターのなかに二台の自転車を見ることはなくなった。
母は防犯のためではなく、買い物袋を自転車のカゴに入れたまま八階まで行くことができるという理由でいまも自分の自転車を運び上げているが、たとえば、母と自転車、そしてぼくが先にエレベーターに乗っていたとしたら、多くの人は同乗しようとせず、「お先にどうぞ」というだろう。
むかしは団地に住むほとんどのひとが顔見知りだったが、いまは違う。母は四十六年ものあいだ、変わらずに八階の2LDKの部屋に住み続けているが、顔を知っているひとはおそらく、全住民の五分の一にも満たない。
あれだけいた子どもたちもほとんどいなくなった。ぼくの息子と娘は四十年前にぼくが通った小学校に毎日登校しているが、団地から来ている子どもは、ぼくの印象だと全児童数の一〇分の一くらいだ。
では残りの一〇分の九の生徒たちはどこから通ってきているかというと、分譲マンションや大企業の広大な社宅からだ。
時代は変わった。
あらゆることが便利になり、娯楽は増え、たやすく遠くのひとともつながることができるようになったが、その引き換えに、ひとびとは孤独になった。自分のことは自分でやらなければならず、団地のとなりに住むひとが孤独に苦しみ、金銭的に苦しんでいても、手を差し伸べることができなくなった。
なんとかなる。
その根拠のない思いは、結局最後はだれかが助けてくれる、という思い込みがもたらすものだ。
なんとかなる、と思えない社会では、子どもは増えない。
児童手当がどれだけ手厚くても、そんなことはまったく関係ないのだ。
(続く)

しまだ・じゅんいちろう 1976年、高知県生まれ。東京育ち。日本大学商学部会計学科卒業。アルバイトや派遣社員をしながらヨーロッパとアフリカを旅する。小説家を目指していたが挫折。2009年9月、夏葉社起業。著書に『父と子の絆』(アルテスパブリッシング)、『長い読書』(みすず書房)などがある。
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