【連載】子どもたちと話したい読書のこと◎島田潤一郎——第15回/テレビゲームの思い出

第15回 テレビゲームの思い出

 眠る前に、よく『実況パワフルプロ野球』のことを思い出す。
 このゲームが発売されたのは一九九四年の三月、ぼくが高校二年生のころで、当時ヤクルトスワローズの熱心なファンであったぼくは発売日か、たぶんその次の日にはこのスーパーファミコン用のソフトを手に入れていたように思う。

 それまでの野球ゲームの定番といえば、『プロ野球ファミリースタジアム』、通称「ファミスタ」だった。八六年にファミリーコンピュータのロムカセットとして発売されたこのゲームは、友人の家で対戦して盛り上がる、どちらかというとパーティーゲームの要素の強いソフトであったが、『実況パワフルプロ野球』は実際の選手たちの能力をどのようにゲームのなかで再現できるかに力を注いだ、おそらくプロ野球ファンではないひとには退屈な、すこしマニア向けのソフトであった。

 当時のヤクルトの主力選手であった古田敦也や池山隆寛らの打率や打点、ホームラン数を暗記し、伊藤智仁や岡林洋一らの勝利数、防御率を諳んじていたぼくにとって、『実況パワフルプロ野球』は待望のゲームだった。選手たちの姿こそかわいらしくディフォルメされていたが、伊藤智仁の投げる高速スライダーはこちらがイメージしているとおりによく曲がったし、飯田哲也の守備範囲と肩の強さは実際のプロ野球の試合と同じくチームの要となった。

 ぼくは大学進学に向けて毎日勉強をしなければいけない身分であったが、毎日必ずスーパーファミコンの電源を入れ、一試合か二試合『実況パワフルプロ野球』をプレイした。九五年の二月に『実況パワフルプロ野球2』が発売され、一三〇試合のペナントレースがプレイできるようになってからはますますこのゲームにのめり込み、それは生活の中心とまではいわないけれど、朝昼晩の食事と同じくらいに、ぼくの毎日に欠かせないものとなった。

 早逝した従兄も野球が好きだったので、ふたりでよく『実況パワフルプロ野球』で対戦をした。
 このゲームの特徴は打撃よりもピッチングに重きが置かれていることであり、相手の心理が読めなければ、いくらゲームがうまくても試合に勝つことはできなかった。
「次の球は絶対にカーブだ!」
 そんなふうに山を張り、思い切って振ったバットがボールの芯を捉えたときの興奮といったら。
 だから、ぼくはいまでも『実況パワフルプロ野球』のいくつかの瞬間のことを思い出すのである。

 娘が一所懸命、『ゼルダの伝説 ティアーズ・オブ・キングダム』をプレイしている姿を見ると、もしかしたら、いまこの瞬間が彼女の記憶に深く刻まれ、娘はこのときのことを大人になって何度も思い出すのかもしれない、と思うことがある。
 たとえば、なかなか倒せない怪物(氷雪グリオークだ)と十分も二十分も戦い、あともう少しで倒せるというところで油断し、敵の一撃を浴び、地面に斃れ、号泣してしまったときのこと。
 もうやりたくない、戦いたくない、と何日も巨大な敵と戦うことを厭い、そうして久しぶりにコントローラーを握ったら、いつもよりリラックスして、難しい技を繰り出すことができ(ジャスト回避&ラッシュだ)、その敵を華麗に打倒したときのこと。そして、その横で父が、「すごいよ、すごいよ」と興奮し、涙を浮かべていたときのこと。

 もちろん、ぼくが見逃していて、けれど娘にはなぜか忘れられないゲームのなかのシーンというのも、たくさんあるだろう。
 四十九歳のボクが知っているのは、そのゲームの記憶というのは、こちらが思っているよりも長く残り、ときどき、こちらを励ましてくれるということだ。

 いまや、娘はぼくの何倍も『ゼルダの伝説 ティアーズ・オブ・キングダム』が上手い。
「ねえ、ねえ」
 ぼくは自分が倒せない敵や、解けない謎に出会うと、娘の名を呼ぶ。
「ちょっとパパの代わりにやってみてよ」
 娘はまんざらでもないという顔で、ゲームのコントローラーを握る。
 そして、
「やっぱダメだなあ、パパちゃんは」
 といいながら、安々と敵を滅ぼし、ぼくが十分考えても解けなかった謎をかんたんに解く。

(続く) 

島田潤一郎

しまだ・じゅんいちろう 1976年、高知県生まれ。東京育ち。日本大学商学部会計学科卒業。アルバイトや派遣社員をしながらヨーロッパとアフリカを旅する。小説家を目指していたが挫折。2009年9月、夏葉社起業。著書に『父と子の絆』(アルテスパブリッシング)、『長い読書』(みすず書房)などがある。

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