【連載】子どもたちと話したい読書のこと◎島田潤一郎——第13回/毎朝、ぼくと娘は

第13回 毎朝、ぼくと娘は

 朝の三十分、骨の折れる本を読むという習慣がはじまったのは、娘の学校につきそうようになってからゆっくりと昼食をとるのが難しくなり、それにともなって、毎回食後にとっていた読書の時間の確保がままならなくなったからだ。

 毎朝、目が覚めると、まず今日はどこへ行こうかと考える。幸いなことに、我が家の近くには自転車で行ける範囲に複数のコーヒーチェーン店があるので、今日はA駅近くの店舗、次の日はB駅というふうに、気分によって行く店を変えている。
 頼むのは、Mサイズ、あるいはトールサイズのコーヒー。それを片手に、老眼鏡をかけて、Q数のちいさい昔の文庫本を読む。ついこの間まで読んでいたのは津田左右吉の『文学に現はれたる我が国民思想の研究』で、いまは中西進訳注の『万葉集』を読んでいる。

 自宅に帰ると、小学校五年生の息子がランドセルを背負って靴を履いているところで、ぼくの顔を見るとニヤニヤ笑って、「おハゲ」という。「おハゲじゃないよ」そういって、息子の頭をゴシゴシとさわる。息子は「いってきます」といって玄関を出ていく。

 娘は起きているときもあれば、布団のなかでぐっすりと眠っていることもある。
 スマートフォンを見たり、新聞を読んだりしながら、娘が起きてくるのを待っていると、やがて彼女は、赤ん坊のころからつかっているタオルケットを抱えながら起きてくる。そして、「パパ」といいながら、ちいさな身体をこちらに寄せてくる。
 娘は毎朝、テレビ東京の「いい旅、見つかる 教えて! ツアーの達人」とTBSの「ラヴィット!」を見ながら一枚のトーストをゆっくりと食べる。ぼくは彼女が食べ終わるタイミングで、「今日もゼルダやる?」と尋ねる。
 娘はにっこり笑って、うなずく。

『ゼルダの伝説 ティアーズ・オブ・ザ・キングダム』は一言でいえば、主人公のリンクがゼルダ姫を助けるゲームだ。もちろん、彼女を救うためにはさまざまな試練を乗り越えなければいけないし、シナリオの最後には「ラスボス」であるガノンドロフを倒さなければならない。が、ゲームがはじまってすぐのころは、それよりも、なにをすればいいのかがわからない。

 ぼくと娘は代わりばんこに主人公のリンクを動かす。走り、ジャンプをし、池で泳ぎ、拾った棒で草を薙ぎ払う。それだけで、なんともいえずたのしいのがこのゲームのすごいところで、敵を倒さなくても、大地にはバッタがいて、池には魚がいる。ぼくと娘はそれをせっせと捕まえる。
 魚やバッタや木の実はそのまま主人公の食べ物にもなるが、火であたためれば、薬や料理の材料にもなる。そのことがわかったときの驚きといったらなかった。以来、娘はほぼ毎日『ゼルダの伝説 ティアーズ・オブ・ザ・キングダム』のなかで料理をし続けたのであり、最後のほうはガノンドロフを倒すよりも、いかに珍しい料理をつくるかのほうに精魂を傾けていた。

 父親であるぼくのほうは、ゲームで描かれる世界の美しさに毎日魅了されていた。それは山の美しさであり、渓谷の美しさであり、水面の美しさだ。しかも、それらは遠景でなく、借景でもなく、ほとんどすべて、ぼくたちが旅をして、手足をつかってのぼり、くだり、泳ぐことのできる場所なのだ。

 一週間もすると、ぼくと娘は生きている世界を、もっといえば、毎日通う通学路を「ゼルダの伝説」をとおして眺めるようになった。「あの雲の感じ、ゼルダっぽいね」とか、「リンクだったら、ウルトラハンド(重たい物をもちあげる能力だ)であの車を持ち上げるのにね」などといって、見飽きた景色にあたらしい色を与えた。

 三年生の授業がはじまって間もないころ、子どもたちのひとりひとりが自己紹介をする時間があった。
 みな椅子を引き、勢いよく立ち上がって、自分の名前と好きなものをいった。
 ひとり目が「好きなもの」というところを「好きな遊び」といったので、その次の子からはそれぞれが考えて、「好きなもの」のところを「好きなスポーツ」とか「好きなキャラクター」に変えて、自分が夢中になっているものを発表した。

 すぐに娘の番がやってきたが、もちろん娘は立ち上がることすらできず、仕方なくぼくが立って、娘の名前をいい、それから「好きなゲームはゼルダの伝説です」といった。
 何人かの男の子が「おお!」と目を見開いて、反応してくれた。
 ちなみに、娘のことをいつもあたたかく見守ってくれる女の子は「好きなくだものは冷凍みかんです」といっていた。

(続く) 

島田潤一郎

しまだ・じゅんいちろう 1976年、高知県生まれ。東京育ち。日本大学商学部会計学科卒業。アルバイトや派遣社員をしながらヨーロッパとアフリカを旅する。小説家を目指していたが挫折。2009年9月、夏葉社起業。著書に『父と子の絆』(アルテスパブリッシング)、『長い読書』(みすず書房)などがある。

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