【連載】続・マタギの村から◎大滝ジュンコ――第52回/煙は伝統が生きている証

第52回 煙は伝統が生きている証

 今年は六月上旬からシナノキの樹皮の仕込みを始めた。村の伝統織物「羽越しな布」を作るためだ。山熊田の暮らしは季節ごとに仕事が決まっていて、従来のルーティンに則れば、この作業は六月下旬から始め、一ヵ月間みっちりやるものだった。 
 しかも同時期に、来年分のシナノキ伐採と樹皮剝ぎも行う。これがなかなかハード。藪をこぎ、生えている草木を手がかりに崖を登り、斜面で踏ん張りながらの力仕事だから、あからさまにヘトヘトになる。 
 体力回復の時間もなく、仕込みは蒸し暑かろうが大雨だろうが、中腰での地味な作業がずっと続くものだから、徹底的に疲労困憊していく。だから梅雨のニュースが流れる頃になると、「魔の六月下旬」に向け毎年覚悟を決めてきたのだった。 
 だが仕込みのメカニズムを解明した今、わざわざ六月に集中させずともいいのでは。昔と違ってすでに夏の暑さだし。 
 というわけで仕込みを二週間前倒しにした。そうして時間的にも身体的にも余裕ができたのだ。「魔」なんてつけたらバチが当たるくらい、全ての作業が楽しい。早く気付けばよかった……。 

 仕込みには気温が重要だ。この時期、まだ夜は寒いのだけれど、近年では、日中の気温は三十度まで上がるので、心置きなく仕込みを始めた。仕込みの煮込みや糠漬けなどの作業の合間を見つけて、薪割りや田んぼの作業などの仕事をこなす。ずっと労働をしているのだが、切羽詰まった感覚は全くない。 

仕込み時期を早めたことで、より一層清々しい工房裏の川。糠洗いは最も好きな仕事だ 
作業する川のそこかしこで、カジカガエルの透き通る声が響きわたる 

 昨年採った樹皮を浸水させて柔らかくなったら、鍋の径に合わせて巻いて紐で縛る。カッチカチに乾燥しているけれど、シナノキ特有のヌルヌルした樹液は水を得れば復活して、手も長靴も作業着もベッタベタ。巻いた皮に広葉樹の木灰をまぶして鍋に入れ、さらに、これでもか! と追い木灰を盛る。かなり贅沢な使い方だ。二、三日煮ると樹皮はペタペタと柔らかく、赤黒くなる。吹きこぼれる煮汁も赤黒い。強アルカリ性の木灰水に樹脂のリグニンなどが溶け出したものだ。 

 煮上がった樹皮は熱々で重い。厚手のゴム手袋で引き揚げる。煮汁で再び、全身が濡れて汚れるのだがそんなことお構いなしで、そのまま「あまたて」という作業へなだれ込む。地面に一枚伸ばし、爪の先で層の分かれ目を探って、紙のようにペラペラとめくって剥がす。それを、水場や川でしごき洗いしてから、糠漬けする。煮たり、糠に漬けたりとまるで料理っぽいが、まさにそう。糠漬けは発酵、温度が大事。うまく発酵が進むと、表面が盛り上がり、あの赤黒かった色は、元の内皮のクリーム色に戻る。それを洗って干せば一釜目が終わる。樹皮の浸水から終わるまで二週間ほど。ふだん我が家は二釜仕込むが、糸づくり従事者を育成するための練習用に、今年は三釜仕込んだ。 

 この原稿は私の機織り工房で書いているのだけれど、実は煮込みの三釜目の最中だ。窓から見える煙の立ち方で、薪をくべに行く。今夜寝るまで炊いて、それまでは晩酌でもして、朝目覚めたら再び火をつける。明後日の朝には煮上がるだろうから、それまでは組合から引き上げてきた母ちゃん(義母)の織機の修理を進めよう。なんて有意義なんだ。この余裕はなんなんだ。 

 気温の上昇もあるけれど、最も大きな変化の理由は、しなの仕込みそのものが完全に母ちゃんから私に代替わりしたからだ。今まではこちらの都合などお構いなしに、近所の婆たちに負けじとビシバシ樹皮を仕込んでいたし、私も仕込まれていた。だからその期間は予定を一切入れられない。力仕事は主に私の役、そのぶん余力を保つ母ちゃんのハイペースで作業は進む。休むという概念が極めて薄い世代だということも相まって、「魔の六月下旬」となっていたのだ。 

 それがどうだ、こんなにおもしろいなんて。一ヵ月間ひたすら丼飯が続くようなものと思っていたのが、実は和洋中のビュッフェだった。それくらい彩り豊かに仕事のおもしろさを味わっている。代替わりしたとはいえ、母ちゃんはすこぶる元気で、薪をくべてくれたり、「あまたて」を手伝ってくれたりと頼もしい。私に花を持たせてくれている思いやりも当然あるだろう。最高の師匠に恵まれたありがたさ。今度山を降りたときには、母ちゃんの大好きな箱のアイスをたくさん買ってこよう。 

 ただ、今年も気がかりなことが。高齢を理由に、しなの仕込みをやめる人がまたひとり。仕込みをやめるということは糸づくり従事からの引退を意味する。今頃は村のあちこちで煙が上がっているはずなのに、今年は少ない。今から仕込むのかもしれないが、今年の私は余裕があるから手伝いにだって行ける。伝統が生きている証の煙は、今日も立ち昇っている。 

工房の窓からは、樹皮を煮る釜の煙が見える
大滝ジュンコ

おおたき・じゅんこ 1977年埼玉県生まれ。新潟県村上市山熊田のマタギを取り巻く文化に衝撃を受け、2015年に移住した。

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