プロットの鍵明かします
小説家の清水義範は、高校時代に映画館で観たビリー・ワイルダー監督作品『あなただけ今晩は』の面白さに心奪われたのをきっかけに、映画ファンとして目覚め、ワイルダー作品のとりこになった。でもって私も高校時代、清水が『映画でボクが勉強したこと』で切々と説くワイルダー愛に導かれて鑑賞した『情婦』の面白さに心奪われたのをきっかけに……、以下同文。
映画女優の恍惚[こうこつ]と狂気を描いた『サンセット大通り』、マリリン・モンローがとにかく魅力的な『お熱いのがお好き』、疾走感抜群の『ワン・ツー・スリー』等々、ワイルダーの代表作を挙げていったらキリがない。が、一つだけ選べと言われたら、この監督ならではの旨みに満ちた、この作品におちつくと思う。
ニューヨークの保険会社に勤める主人公バクスターが、自身のアパートを不倫用の連れ込み宿として上司たちに貸し、その見返りに出世していくかたわら、会社のエレベーターガールに片思いを募らせていく。といったあらすじを持つ『アパートの鍵貸します』は、1960年公開のアメリカ映画。翌年のアカデミー賞では作品賞、脚本賞など、5部門を受賞した。そして本書は、ビリー・ワイルダーとI・A・L・ダイアモンドが共同執筆した、この映画のオリジナルシナリオである。
ワイルダーといえば、さりげない伏線を張り巡らすのが特色で、そのさりげなさに寄与するのが、説明の鮮やかな省略といえる。説明しすぎず、しなすぎずの、絶妙な省略テクニックを駆使し、「話を〝なるほど〟でつないでいく世界一の天才」(清水前掲書)がワイルダーなのだ。その天才ぶりは『アパートの鍵貸します』でも大いに味わえるわけだが、本書併録のインタビューで三谷幸喜も語るように、映画版と本書を見比べて驚くのは、九割方、違いがない点だろう。あのかっちりしたプロットは、脚本づくりの段階で、ほぼ仕上がっていたことになる。
だからこそ、数少ないカットシーンがひときわ目を引く。たとえば序盤の、バクスターが睡眠薬を飲むくだり。のちに重要な役割をはたす睡眠薬の存在を視覚的に強調する、捨て置けない伏線に感じられるにもかかわらず、映画版ではカットされている。睡眠薬についてはセリフでフォローされるので、実際の出来栄えに違和感はないのだが、それにしても、かなりの自信と勇気を要するカットだったのでは? そういった、推敲の形跡をうかがえるのが面白い。
訳者による、至れり尽くせりの脚注にも舌を巻く。そもそも上司たちはどうしてアパートの鍵を頻繁に借りる必要があったのか、というニューヨークの当時のホテル事情をはじめ、セリフにこもる微妙なニュアンス、関係者の語る撮影秘話、訳者自身による考察、はては作中に登場するスープのレシピまで、多彩な関連情報をこれでもかと教えてくれる。
ある場面でヒロインが語るセリフの一人称が、「I」(脚本)から「We」(映画)に変更されている、というプチ情報が気になり、映画を見直した。なるほどと気づき、じんときた。この感動を説明するには、私の省略テクニックでは無理そう。ぜひ映画で全篇[ぜんぺん]を追ったうえで「脚注168」にたどり着いてください。


さとう・やすとも 1978年生まれ。名古屋大学卒業。文芸評論家。 2003年 、「『奇蹟』の一角」で第46回 群像新人文学賞評論部門受賞。その後、各誌に評論やエッセイを執筆。『月刊望星』にも多くの文学的エッセイを寄稿した。新刊紹介のレギュラー評者。