第74回 モンゴルでテレビ番組をつくる
モンゴルに関するドキュメンタリー番組をつくる制作チームに、参加させてもらうことになった。
ディレクター、カメラマン、草原のコーディネーター、街のコーディネーター(私)は日本人。音声、カメラアシスタント、通訳、運転手はモンゴル人。 2ヵ国混合チームなので、通訳とコーディネーターが両者のコミュニケーションをつなぐ。
撮影初日は、1月半ばの水曜日だった。

朝7時半、ウランバートル中心地にあるホテルで、メンバー全員がはじめて対面。これから1週間、街や草原を旅する仲間になるのだから、それぞれ内心ドキドキもあったと思う。
顔あわせが終わったら、各自が持ってきた機材のチェック。
マイナス20度(これでも暖冬)に耐えられるよう完全防備で、すぐにスフバートル広場へ移動して、撮影をはじめる予定だった。スケジュールがタイトなので、どんどん進めていかないといけない。
……が、ハプニング! 日本から持ちこんだカメラと、現地で調達した音声録音機材をつなぐためのケーブルが、ない。このままだと映像と音声のデータを同期できず、編集作業をするときに膨大な時間がかかってしまう。
大丈夫だろうか? そんな、だれかの心の声が漏れ聞こえた気がした。
ピリッとした空気が走る。
ウランバートル中の店舗に問い合わせたものの、「5メートルもの長いケーブルは売っていない」という答えばかりが返ってくる。
でも、きっとなんとかなると私は信じていた。
途中でうまくいかなくても、動じることなく最後にバシッとキメてくるのがモンゴル人だからだ。魔法のように、そうなのだ。
とりあえずケーブルが見つかるまで、すべてのカットにおいて、カメラの前でディレクターが両手をパチン!と叩く。こうすることで、バラバラの映像と音声のスタート位置を編集時に合わせることができる。

朝日が顔を出した8時40分。一同は広場へ移動した。
ここで、いくつかの場面を撮影することになっていた。
そのひとつが、隣接する国会議事堂の前に鎮座する巨大なチンギスハーン像の近距離撮影。事前に撮影許可申請を提出していたので、本番までにOKが出るはずだった。
ところが!
私たちが現地に着く数日前から「政府は辞職せよ!」と訴える一般市民のデモが発生。混乱により危険が生じる可能性があるからと、像の撮影許可は結局おりなかった。こればかりはモンゴル人パワーでもどうにもならない。
さて、撮影初日の午後、なんと5メートルのケーブルが届いた。手配してくれた音声スタッフの青年によれば、知人に大急ぎでつくってもらったという。自分の手でなんとかしてしまうところが、モンゴル人らしい。

大小のハプニングに対処しながら、撮影隊はあちこちを駆け回った。
青空市場を歩き回っているときは、さすがに足元がジンジン冷えた。ここで毎日商売している人たちは、どうやってこの寒さを乗り越えているんだろう?
見れば彼らは、内側が子羊の毛でもこもこ覆われた民族衣装を着て、頭に毛皮の帽子、足は毛皮のブーツ。モンゴル人の暮らしが家畜の存在に支えられていることを実感する。
1日の撮影が終わると、今度は車が渋滞にはまり、ホテルに着くのが夜遅くなる。移動の車中ではみんな疲れて、ぐっすり……とは、しかし全然ならないのだった。
モンゴル人のスタッフたちは、出会って間もないのにワイワイ冗談を言いあい、会話がとぎれない。
「いやあ、モンゴルの若者はすごいね。渋滞でイライラするかと思いきや、ずーっとおしゃべりしてるんだね!」
日本人のディレクターとカメラマンが驚いていた。モンゴル人のラテン系気質は、ハードな環境を生き抜くための重要な才能だと思う。

面識のない、ことばの通じないメンバーがひとつのチームになったら、どんなふうに仕事が進むんだろう?
現地に行くまで未知数だったが、終わってみれば、信頼が通う関係性ができていたように感じる。ことばが通じないぶん、互いの気持ちを読みとろうとして、よけいに相手の心を感じやすかったのかもしれない。
番組が無事にできあがり、春に日本で放送されたら、モンゴルでお世話になった人たちに見せに行きたい。そのころには気温もすこし上がって、もっと動きやすくなっているだろう。

おおにし・かなこ フリーライター・編集者。広島生まれ、東京育ち。東京外国語大学モンゴル語科卒。日本では近所の国モンゴルの情報がほとんど得られないことに疑問を持ち、2012年からフリーランスになりモンゴル通いをスタート。現地の人びとと友人づきあいをしながら取材活動もおこなう。2023年9月に株式会社NOMADZを設立し、日本で見られるモンゴルの音楽イベントやモンゴル映画祭を現在企画中。