第46回 タイムスリップ上映会
ここ山熊田には、廃校になった小中学校の建屋がそのまま残っている。昨年、村の全景を撮影するために屋上に上がった折、校長室に置き去りにされていたビデオテープが発見された。ボロボロのダンボールに詰まったままカビている。貴重だしおもしろそう、と復元しDVD化、リマスターしたのだった。それを皆で観よう、ということになった。
ビデオテープは全部で三十本ほど。当時赴任していた先生が撮影したものらしい。学校行事や集落の行事、景色など内容も様々な記録映像で、昭和末期から平成初期の頃のものだ。その中から今回は、多くの村人が登場する「山熊田中学校閉校式」「運動会」「学芸会」の三本の上映だ。
会場は村の公民館。昼時だったので、各自飲食物を持ち寄ることにした。夫らシシマキ(熊の巻狩り)をやる男衆は何かと集まれば酒を飲み出す性質上、どうせ飲むのなら、と私はホットプレートに肉など、焼き肉一式を持ち込んだ。いつもの村の公民館が会場なのに遠足気分だ。それもそうだ、みんなでタイムトラベルするのだから。
雪降る中でも公民館の玄関には次々と長靴が並んでいって、七割ほどの村人が集まった。開会の挨拶は、去年から山熊田に移住してくれた私の工房の新たな仲間、Kちゃんとパートナー。ビデオのデジタル化や会場設営など、主だって動いてくれたのだ。スクリーン前に婆たちはぎゅうぎゅうに座る。その後ろに若手世代。いよいよ上映開始だ。
まずは閉校式の映像。来賓挨拶はいつの時代も同じで、時を超えた今でも皆じっと話を聞いている。式典なのか上映なのか混乱し始めた頃、映像は適度に割愛され場面が変わり、我にかえる。編集もせず撮りっぱなしなのに、飽きさせない構成。ビデオ編集が一般には難しい当時の、撮影者の気遣いがとても新鮮だ。
婆たちは、登場する人物の名前を懸命に思い出しては呼ぶ。再び記憶に刻み込もうと、各々が何回も呼ぶ。すると名前の大合唱になった。お世話になった人、この世にはもういない方々へ「私たちは忘れていないんだ」と伝えているようだった。
カメラは参列者へゆっくりとパーンする。すると、村人たちの若かりし姿が続々と現れた。ドッと会場が沸き立つ。「おめさん居たがな!」「あっこの爺やだ!」「ほれ! ねれ(あなたのところの)婆もいだ」。若い自分の姿に照れて顔を隠しながら、自分たちや先輩たちの姿や声、先立っていった家族、まだあどけない子どもたちがスクリーンの中で動くのを夢中で見る。最愛の人のものでさえ薄れてしまった記憶、その活発な姿や声と再会できるなんて、誰も思いもしなかったのだろう。映像に釘付けになり過ぎて、いつもなら延々とお菓子か何かをつまみ続ける婆たちは食べることを忘れ、息子世代も缶ビールの蓋を開けたまま置きっぱなし。あっという間に一時間が過ぎ、運動会の上映に移った。
運動会は学校行事だが、村の全員が参加している。入場行進のプラカードには生徒たちのほか、消防団、PTA、婦人会、同窓会とあって、誰一人もれなくどこかしらのチームに所属できる仕組みだ。聖火ランナーが聖火台に火を灯すと、灯油でモックモクの黒煙が上がる。まるで狼煙、すごい時代だ。
衝撃だったのは消防団用の演目で、走ってきて竿にぶら下がる紙を、咥えタバコの火で焼き切ってからゴールへ、というもの。火の用心や健康促進とのコントラスト。咽せている人もいる。現代ではありえない競技に、私たち移住組や若い世代は大爆笑だ。出演者たちは当たり前のことを懐かしく楽しんでいる。この世代間ギャップもおもしろい。
その隔たりを一気に埋めたのが「かかし競争」だ。肩に長い竿を一本、野良着の袖に通してかかしに扮した男が二人。自ら動けない設定のかかしは、同じ組の走者に片足を摑んで動かされ一歩、また新たな走者が一歩、と繰り返してかかしをゴールさせる。しかしこれは競争だ。勝つために、より大きな一歩にしようと強引に片足を引っ張り出す。かかしは大股どころか股が裂けるほどの格好になった挙句、我慢の限界を迎えてひっくり返る。かかしに無理を強いれる信頼ありきの駆け引きだ。過去の映像を見ているだけなのに生中継さながら、婆がたは入れ歯がすっ飛ぶほど笑い転げている。汗ばんで上着を脱いで涙を拭き拭き、悲鳴混じりの笑い声。運動会より運動量があったほどだ。
かかし競争の一番の見せ場は「ひっくり返り」
村の女たちは毎晩踊りの稽古に励む慣習がある。それを披露した姿が学芸会の映像に残っていた。この巻になる頃には、「踊りまで早送りしろ」と、各々が若かりし自分との再会を前のめりに楽しむようになっていた。画質は荒くノイズだらけでも、記憶を鮮やかに蘇らせるには十分だ。
力いっぱい笑っては亡き人の躍動する姿に涙し、感情を揺さぶり続けた三時間。焼き肉の出番はとうとうなかったのだった。
おおたき・じゅんこ 1977年埼玉県生まれ。新潟県村上市山熊田のマタギを取り巻く文化に衝撃を受け、2015年に移住した。