第3回 本が読めない
毎日朝10時から夜の0時まで働くという日々のなかにいると、本なんて読まなくなる。
それは疲れているからであるが、ほかにも理由がある。
ぼくが勤めていた会社は三連休ですらお盆と正月の年に二回しかなく、まとまった休みがほしいと思ったら退職届を提出するほかないようなところだった。
ではあのころ、一週間、ないしは二週間の休みをもらえたら、ぼくは学生のころのように一所懸命、本を読んだだろうか?
薄い本なら読んだかもしれない。
それは村上春樹の『風の歌を聴け』、あるいは当時のベストセラー『チーズはどこへ消えた?』くらいの薄い本で、ぼくはあくびをしながら新幹線や飛行機のなかでそれらの本をペラペラとめくるのである。なんとなく、想像がつく。
でも、それ以上はだめな気がする。
忘れられない一冊がある。そのころ、仕事終わりの飲み会の席で、ふだんはあまり接点がなく、仕事以外の話をしたことのなかった上司が、わたしのいちばん好きな本は『長くつ下のピッピ』なの、といった。
もちろん、本のタイトルは知っていたし、それを書いたのがリンドグレーンだということも知っていた。
でも、読んだことがなかった。
さっそく、次の休みの日に古書店で岩波少年文庫の『長くつ下のピッピ』を買ってきて、寝転がって1ページ目を読んだ。
なかなかおもしろそうだぞ、と思った。ぼくの好きそうな語り口だし、ストーリーもよさそうだ。
256ページという厚さこそ気になったが、児童文学だし、夢中になってしまえば、一日二日で読めそうな気がした。
が、ぼくはすぐに読むのをやめてしまった。
なんとなく、読みたくなかったのだ。
前回、ぼくはしつこいくらいに「ざっくりいうと」について書いた。
こうしたオフィスでしか聞かなかった日本語はほかにもあって、同じくらい鮮烈に記憶に残っているのは、「コミットメント」という言葉だ。
それを口にしたときの若い役員の自信たっぷりの表情、スーツの色、その下に着ていたワイン色のVネックのセーターの色までもはっきりと覚えている。
いまでこそ、仕事の現場だけでなく、インターネットニュースやSNS、本のなかでもこの言葉に出会うが、2006年当時はおそらく、いまほどには市民権を得ていなかった。
当時、何度となくインターネットで「コミットメント」という言葉について検索し、その用法を調べたが、いまいちピンとこず、あれから二十年近く経ったいまでも、ぼくはこの言葉をつかったことがない。
東京や大阪の会社ではいま、みんな「コミットメント」という言葉をつかって、会議で発言をしたり、メールを書いたりしているのだろうか? それとも、「コミットメント」という言葉はもう廃れはじめているのだろうか?
ぼくが二社目の会社を辞めたのは2008年3月31日で、それ以来、組織というものには一度も属したことがない。
だから、2024年のいま、オフィスのなかでひとびとがどのような話し方をし、どのような言葉をもちいてプレゼンテーションをしたり、目標到達のための戦略を話したりしているのかがわからない。
そんなもの、会社によって違うよ、といわれれば、それはそうだろうな、と思う。数兆円の売上規模を誇るような商社と、ぼくが在籍していたような零細企業では企業文化が違うし、仕事にたいする意識も、考え方も違うだろう。
でも、その企業間の言語の差異はおそらく、ぼくが上司や同僚と打ち合わせたり、報告していたときのしゃべり方と、ぼくが友人や家族と話し込んでいたときのしゃべり方ほどの違いはないはずだ。
会社員生活を送っていたころ、大学時代の友人たちと集まることがあると、心底ほっとした。
彼らとしゃべっていると、学生のころに戻れた気がしたし、ほんの数時間ではあるが、仕事のことも忘れることができた。
それはたくさんの思い出を共有していたからだけではないだろう。
彼らの言葉遣いや、遠慮のない物言い、そして学生のころによく飛び交っていたたくさんの固有名詞が、ぼくを束の間、90年代のキャンパスにタイムスリップさせるのだ。
しまだ・じゅんいちろう 1976年、高知県生まれ。東京育ち。日本大学商学部会計学科卒業。アルバイトや派遣社員をしながらヨーロッパとアフリカを旅する。小説家を目指していたが挫折。2009年9月、夏葉社起業。著書に『父と子の絆』(アルテスパブリッシング)、『長い読書』(みすず書房)などがある。