【連載】子どもたちと話したい読書のこと◎島田潤一郎 ——第8回/成長している

第8回 成長している

 三十代のころまでは、いや、四十歳になるくらいまでは「成長」というものを信じていた。真面目に仕事をし、コツコツと経験を重ねれば、あるいは仕事以外の時間で読書をしたり、専門学校にかよったりすれば、自分は前よりも成長すると考え、微塵も疑うことがなかった。 

 たしかに、ぼくは若いころよりもいろんな種類の本を読めるようになったと思うし、人前でしゃべるときも、自分よりもずっと偉いひととしゃべるときも、昔よりも緊張しなくなった。 
 若いひとから、仕事や人生について相談されても、なにかしらのアドバイスをすることができるし、仕事で思いがけぬトラブルに出遭っても、「冷静に」とまではいわないが、あまり取り乱すことなく、それなりに対応することもできるようになった。 

 そういうことのすべてを「成長」と呼ぶのであれば、ぼくはかつてよりも成長したのだと思う。ぼくはなんていったって、来年には五十歳を迎える中年であるし、世間一般からすれば「成長」というよりも、「成熟」という言葉が似合わなければならない年齢なのかもしない。 

 でも一方で、学生のころとまったく変わっていない自分にも気づく。 
 ぼくは起業し、会社を続けていく過程で、さまざまなタイプの人間と人見知りもせずにしゃべれるようになったと思っていたが、それはあくまで同じ趣味、同じ価値観を持つ人間とだけで、趣味も、業界もちがうひととは相変わらず会話がまったく続かないのだった。 
 そのことは親になって、気づいた。 

 たとえば、赤ん坊を連れて公園に行けば、かなりの確率で同じ年の子どもを連れたお父さん、お母さんに出会うのだが、ぼくは彼らとなにを話せばいいのか、まったくわからなかった。 
 ぼくはできれば、いま読んでいる本の話をしたかった。それが通じないのなら、せめて、いま夢中になっているミュージシャンの曲や、ライブや、SNSの話をしたかった。 
 で、相手の顔色をうかがって、それらの話をねじ込む機会を伺うのだが、そんなチャンスは当たり前だが、一度も訪れることはなかった。 

 こうした経験は中学のときも、高校のときも、大学のときも、社会人になってからも、数えられないくらいにした。相手がぼくが好きな本や音楽に興味がないと知っていても、かまわずに話し出し、気まずい空気になったことも一度や二度ではなかった。 
 それでも、ぼくはそのことをやめられないのだった。 

 毎日、SNSを眺めていると、「ああ、このひとはまだまだ若いなあ」と感じることがある。 
 それは、ぼくもかつてはそういうふうに思っていたし、考えていたが、大人になったいまは、そうは思わないし、考えないということである。ぼくはつまり、そうした考えや、悩みや、葛藤や、独り相撲を乗り越えて、大人になったと信じ込んでいるのである。 

 そこには、人間の能力は学習し、努力を積み重ねることで、長い成長曲線を描くことができるという経験への信頼のようなものがあり、ぼく自身も、いまもそのようなビジョンをもっている。  
 でも、そうした考え方だけでは説明できないことも多い。 

 努力は往々にして報われない。それは人間関係においてそうであるし、仕事においてもそうである。 
 友人が多く、仕事において成功をおさめているひとが、ぼくの何倍も、何十倍も努力をしているわけではない。 
 いや、見えない努力を重ねている、あるいは、あのひとはああ見えてたくさんの経験をしているんだ、というひともいるが、ほんとうにそうかなあ、と思う。 

 それよりも、たんに、昔からそういうひとだった、とか、入った会社がそのひとの性格に向いていた、と理解するほうがぼくにはしっくりくる。 
 もちろん、自分の適性に向いた仕事を見つけることができるのもひとつの能力だとは思うが、そんなことよりも、配属された部署での人間関係のほうが何倍も重要なのではないか。 

島田潤一郎

しまだ・じゅんいちろう 1976年、高知県生まれ。東京育ち。日本大学商学部会計学科卒業。アルバイトや派遣社員をしながらヨーロッパとアフリカを旅する。小説家を目指していたが挫折。2009年9月、夏葉社起業。著書に『父と子の絆』(アルテスパブリッシング)、『長い読書』(みすず書房)などがある。

バックナンバー

バックナンバー一覧へ