神話とは?を教えてくれる格好の書
今の日本のサブカルチャー作品、小説・漫画・アニメ・ゲームで、人物や団体その他もろもろの名前が北欧神話から採られている作品は数多い。北欧神話の切れはしは、作品に剣と魔法の西洋ファンタジーらしさをもたせるスパイスのように使われている。
数十年前、北欧神話は知る人ぞ知るマイナーなものだった。昔の北欧のことなどヴァイキングくらいしか知られていなかった。大阪外国語大学教授・菅原邦城[くにしろ]氏は、そのころから北欧神話を研究・翻訳し、日本に紹介してきた。1984年に『北欧神話』を刊行。この本はそれを元にして、新たに北欧神話を知らない人への入門書として書き起こされた。
もしかしたら、今は北欧神話の切れはしが知られるようになったが神話そのものを知る人はそれほどいないのではないか、という気がかりがあったのかもしれない。しかし終章を書き上げる前、2019年に菅原氏は逝去。かつて菅原氏が会長を務めた日本アイスランド学会の有志は、菅原氏の原稿を補筆し監修、未完の形で発行した。
この本は、北欧神話や他の神話の知識がない読者を導くように「です・ます」調で書かれた、北欧神話研究の入門書でもある。講義のようだ。
まず、神話とは何かについて語る。そして北欧諸民族は、東はインドから西はヨーロッパに住む大きな民族集団である印欧語族に属すること。印欧語族の神話には共通した点があるとする。そしてフランスの神話・言語学者ジョルジュ・デュメジルがとなえた三機能構造説を説明。これは印欧語族の神話では、神々の機能は上から「主権」「戦闘」「生産」に分かれており、この考えが社会階層や神学の主要部分を構成するという仮説で、神話研究では有名な説だ。つまり神話学の入門から入る。
そして北欧神話の資料『エッダ』について。『エッダ』はふたつある。ひとつは詩で物語を語る、作者不明の『詩のエッダ』。もうひとつは、中世アイスランドを代表する文人にして首長スノッリ・ストゥルルソンがまとめた、散文で物語を語る『スノッリのエッダ』。スノッリは外国の知識もあるキリスト教徒だ。『スノッリのエッダ』には聖書や外国の歴史書の影響も見られる。ふたつのエッダの中身は少し違うところも多い。ここでは北欧神話の物語ではなく、その違い・ずれを見てみる。
『詩のエッダ』の詩と、それをもとにした『スノッリのエッダ』のなかの「ギュルヴィの惑わし」での神々では、オージンは神々の父長で、戦い・知・魔術を司る強大な神。その息子ソールは、最強の戦神で神々の敵となる巨人たちを打ち破る――よく知られる北欧神話だ。
だが『スノッリのエッダ』の「緒言」では全く違う。ソールはアジアにあるトローヤの王子で、オージンはその子孫。彼は大勢を引き連れて北上し、デンマーク・スウェーデン・ノルウェーに至り権勢をふるった、と書いてあり、オージンやソールを神ではなく歴史上の人物のように描いている。
資料によって神話世界や神々の姿が違う。このことでわかるのは、神話やそこに登場する神々の像とは、産地や性質のバラバラな繊維を糸に撚り、それを集めて織ったタピストリーのようなものだということ。神話は違う地域、違う信仰が寄り集まって形成されている。それぞれの糸や繊維の違いを解析し、起源をたどるのが神話研究なのだ。
神話学者は神話を構成するいくつかの出自を書かれた言語で解析しつつ、民族が語ってきた神話の物語性をたどる。この未完の本で著者の言いたかったことは、このようなことではないだろうか、と考える。
さわ・いずみ 神奈川県生まれ。中世アイスランドについての研究者をめざすも大学院博士課程に行く前に挫折。出版社勤務を経て司書。さまざまな図書館を渡り歩いたあと、現在介護休業中。やっぱりアイスランドに行きたい。