第44回 村のお葬式(後編)
爺や(義父)が亡くなって、通夜や葬儀は斎場を借りて行うことになった。斎場を使うようになったのはここ十年と最近のことで、それまでは各家々で葬式をした。この変化の理由は、村の人口が減り、今まで通りの葬儀が難しくなってきたからだ。祭壇も、振る舞う料理も、あらゆる労働がお金で解決できるようになったわけだが、どうもおかしい。
通夜とその後の振る舞い、翌日の葬儀や御斎も斎場で全て終えた。私の知る一般的な葬儀の一連を終えたはずが、送迎バスで村に帰ってきたら、みな我が家に入って飲み直す。ご馳走も作る。亡くなってからの一週間、連日宴会が続いていた。
この村では、葬儀場へは夫を亡くした妻は行かないらしい。土葬時代も妻は家にいて、埋葬には行かない。そういうものだと母ちゃん(義母)は同行を拒んだ。しかし妻に先立たれた夫の場合、火葬場にも墓地にも行く。この差はなんだろうね、と村の女性陣のコマイテ(お手伝い)さんたちと話してみたがわからない。冥福を祈り、死を受け入れていくための儀礼のはずが、それを最も必要とするパートナーが立ち会わないとは不思議だ。
葬儀が終わると、オードブルやお寿司など大量に仕出し屋に注文し、コマイテさんたちも交えて、親戚一同が我が家の座敷でフィナーレのごとき大宴会。とにもかくにも、村中の方々のおかげで乗り切ることができたのだった。
ふと、我にかえる。家での葬式にまつわる労働負荷がどうにもならなくなって斎場を利用しているはずが、家でも昔と変わらないもてなしの形式が健在なのだ。二重になったぶん、出費もかさむ。こんな長丁場に、村の皆もよく付き合ってくれているなと驚きつつ、忙しすぎて爺やを偲ぶ隙もない。それどころか、最大の目的が弔いではなく、一連の儀式を無事遂行することに偏っているように見える。思い出話も全く出ず、形骸化された宴に虚しい気持ちになったりもしたのだけれど、こんなネガティブ思考も寝不足のせいか? 偲ぶ概念自体が薄い土地なのか? そもそも、こんなに寝不足になるものなのか?
宴席を片付けながら「大変だ……」と漏らすと、これでもマシになったほうだ、と近所の婆は言う。棺作り、亡骸を座姿に結ぶ縄ない、河原から大量の石の調達、墓穴掘りなど、今ではしなくなった大仕事が多かったと言う。待てよ、それらは男衆の仕事だ。やはり女衆は大変なままじゃないか。
夜も更けて、「お待たせしました」と爺やへ線香を立てた。寝る準備をしようと思ったら、母ちゃんが台所でゴソゴソやっている。様々な食材を並べていた。嫌な予感しかしない。聞けば、初七日の宴会の準備だという。お坊さんが四十九日までの法要を葬儀の後にやってくれたけど、「やるの?」と聞けば、「それはそれ」だそう。初七日、二七日[ふたなのか]、三七日[みなのか]、と四十九日まで続き、百箇日も自宅でやるらしい。終わったと思っていたけれど、まだ終わらないのか。全く油断していた。
朝8時頃から宴会が始まるらしく、5時半起きで調理開始だ。コマイテさんもまたまた登場。この日は天ぷら三種、ゼンマイの一本煮、もずくときゅうりの酢のもの、ところてん、イチジクのシロップ煮。一人五皿と決まっており、それに炊き込みご飯がつく。義理の姉もずっと泊まり続けてくれているが、山熊田出身の彼女も一連を知らず、私と同様に驚き振り回される。「同志」がいてくれて心強い。この頃になると、各自が適材適所のフォーメーションを組めるようになってきた。日常に活かせないスキルだけれど。
毎日の宴会期も過ぎ、一人分減ったいつもの食事の支度に寂しさを感じていると、水あげ(仏壇へのお参り)がてら、朝ご飯の提供や夜の酒飲みが随時起こってアワを食う。さらに、母ちゃんに近しい人たちが二、三週間ほど寝泊まりにくる慣習があり、毎晩賑やか。近隣集落の友人には「そんなやり方、五十年前の話だよ!」 と驚かれたが、それでも徐々に落ち着きは取り戻していった。
もう一度やれと言われたら、私は悲鳴をあげるだろう。しばらくして、村の主婦仲間に手伝いへの感謝と大変だった感想を伝えると、本来は、臨時結成された葬儀委員会とコマイテさんに全て任せ、当事者の家族は何もしないのだそう。実際に動ける人が少なくなり過ぎて今回のようになってしまった。高齢化が進みすぎてコマイテシステムも破綻している。
変えようと試みる人たちが確かにいて、変えたら実感乏しくて味気なく感じる人たちもいた。そうして納得のいく落としどころのズレが拡大して、揺り戻しが起きている。それが今なのだ。
母ちゃんは、「オレはやりたいからやった。おめさんが次に変えればいい。集落の皆で話し合えばいいんだ」。過渡期のバトンを渡された。
おおたき・じゅんこ 1977年埼玉県生まれ。新潟県村上市山熊田のマタギを取り巻く文化に衝撃を受け、2015年に移住した。