この危機の元凶は、私たち自身なのだ
パンデミックの発生から四年あまり。未知のウイルスの出現に戸惑い、人々はその意味について深く考えることよりも、現実的な対策を優先してきた。ただしこの間に、ウイルスは人がコントロールできる存在ではなく、どう共存するかという問題であることもわかってきた。
これは2020年の春、日本に緊急事態宣言が出される直前からおよそ一年間の記録と、文庫化にあたって加えられた1編のエッセイから成る、多くの示唆に満ちた「ドキュメント・エッセイ」である。
それまで、国内外で数学にまつわるレクチャーやトーク活動を精力的に続けてきた森田さんは、突然仕事から解放され、家族とともに過ごすたくさんの時間を手に入れる。そして日々の記録を始めるのだ。これを読むと、感染爆発が始まったころの緊迫した社会の様子がよくわかる。
記録を始めて三日目、4月2日の見出しにはこうある。【新型コロナ、若者が次々に重篤化 NY感染症医の無力感(日経ビジネス)】――「何も治療歴のない健康そのものの屈強な男たちがいきなり、急性呼吸不全になって自発的な呼吸ができなくなり、重篤化、死に至るというようなケースを毎日のように目の当たりにしています……」。そうだ、世界はこんな状況だったのだと、当時の記憶が鮮明によみがえってくる。
こうした報道を目の前にしても、著者の記述は冷静だ。地球温暖化と今回の危機とを比較し、人々の対応の違いについて考察を加える場面がある。数年先と数週間後という「未来の近さ」が危機に対する反応の違いを生むが、二つの危機のあいだには重要な共通点がある。どちらも人間が危機をもたらす要因を作り出しているというのである。
別の日の日記にも、〈今回の感染症の拡大は無論、あくまで人間にとっての危機だ(※)。人間以外のほとんどの生物にとっては、このウイルスはなんの脅威でもない〉と森田さんは書く。新興のウイルスの感染拡大は、生態系全体を巻き込んだ大きな変化の、ひとつの具体的な顕れにすぎない。ウイルスという鏡を通して、人間は自らの行為が引き起こした世界の不気味な変容を体験していることを教えているのだ。
※原文は「人間にとっての」に傍点
地球の気温の上昇、異常気象に伴う世界各地での自然災害の多発、生物多様性の喪失……これらのことはむろん、人々は知識として知っている。けれど果たして、現在直面している危機の重大さを本当に認識しているのだろうか。本書はそう疑問を投げかけてくる。現に私たちは、〈エコバッグのなかにプラスチックが溢れかえるシュールな光景〉と著者が形容するようなちぐはぐな日常のなかにある。地球環境をめぐる問題はもはや生きることと同義であるのに、現実には、数ある課題のひとつとしてしか捉えられていない。
これからの時代を、どう生きるか――ともに活動する仲間や先人たちとの対話を通して、あるいはリチャード・パワーズやティモシー・モートンら同時代の作家の言葉をかみしめながら、著者は問い続ける。明快な答えはない。ただし、ヒントはある。「エコロジカルに生きる」という、シンプルなメッセージだ。
森田さんはコロナ禍をきっかけに、自宅の裏庭で幼い息子たちと菜園作りを始め、土にふれる喜びを知った。本書秋の部では、〈風が吹くこと、地中で虫が眠っていること、どんぐりが落ちてくること、ススキが光を求めていくこと、水を飲むこと、呼吸すること、野菜が育つこと……。そのすべてが面白く、本当にありがたいことだと感じる〉と書いている。
人は、自らは何も生み出さず、自然からの恵みを受け取って命をつなぐ。自然の一部であるのに、ほかの種の野生動物たちから遠く離れ、孤立している。そういう弱い存在であることを、ふだん自覚はしていないけれども。この先何が起こるか分からない不安定な世界のなかで人間は生き続け、ついにはどんな未来の風景を目にするのだろう。
文庫化にあたり、森田さんは本書の副題を2021年刊行当時の「言葉と思考のエコロジカルな転回」から、「めぐる季節と『再生』の物語」へと改めた。若い世代をはじめ、より多くの人の手に届けたいという意図が感じられる。静かに覚醒を促す若き研究者の問いかけに、いまの私たちはどう応えることができるだろうか。
もりた・まさお 1985年生まれ。独立研究者。2020年、学び・教育・研究・遊びを融合する実験の場として京都に立ち上げた「鹿谷庵[ろくやあん]」を拠点に、「エコロジカルな転回」以後の言葉と生命の可能性を追究している。著書に『数学する身体』(新潮文庫。2016年に小林秀雄賞を受賞)、『計算する生命』(2022年に第10回河合隼雄学芸賞受賞)、絵本『アリになった数学者』(福音館書店)、随筆集『数学の贈り物』(ミシマ社)、編著に岡潔著『数学する人生』(新潮文庫)など。
まつなが・ゆいこ 1967年東京都生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。千代田区・文京区界隈の中小出版社で週刊美術雑誌、語学書、人文書等の編集部勤務を経て、 2013年より論創社編集長。