第19回 めでたい松の裏の顔
おめでたい植物といえば松竹梅。とくに松はお正月の門松として飾られます。神が家に入るための依り代[よりしろ]として立てられ、松の語源は「神を待つ」との説があります。マツは寒さに強く、氷点下の冬の寒さでも葉が凍らず、常緑なので、おめでたい植物として日本人に好まれたようです。
しかし「松」という植物は、実はありません。赤松[アカマツ]、黒松[クロマツ]、五葉松[ゴヨウマツ]など、マツ属の樹木の総称です。蝦夷松[エゾマツ]はトウヒ属、椴松[トドマツ]はモミ属、落葉松[カラマツ]はカラマツ属で、葉の付き方が異なる別の属の植物なのです。エゾマツなどは、北海道に移り住んだ人々が、故郷の黒松や赤松を思って命名したのではないでしょうか。
マツ属は南半球には自生していないので、ブラジルに移住した日本人は、現地のナンヨウスギ科の針葉樹をパラナ松と呼び、故郷を偲んだようです。樹形は、日本の松とは異なるエキゾチックな松です。
小田原城跡本丸に樹齢四百年と推定される巨大な黒松があり、テレビ局のロケで訪問したことがあります。
戦国~江戸時代、お城には必ずマツが植えられていました。その理由は、籠城したとき樹皮を剝いで内皮を食べる非常食糧のためでした。大飢饉のときに松の内皮を食べるようにと幕府から通達があり、製法を書いた本『飢食松皮製法』が残っています。飢饉のときには街道の松並木が丸裸になったと伝えられており、意外と栄養価が高く多くの人を救ったようです。
第二次世界大戦末期には、飛行機の燃料が欠乏したので、松の根から松根油を絞ったという悲しい歴史もあります。
江戸時代の儒学者・熊澤蕃山[くまざわ・ばんざん](1619~1691年)は、陽明学者で、幕府の主流であった朱子学者から迫害され、出仕していた備前岡山藩を離れ、全国を転々とし、最晩年は下総国古河藩(現在の茨城県古河市[こがし])に蟄居させられました。
しかし蕃山は、めげることなく『大学或問』を執筆しました。その中で、「松の木にかかりたる雨露毒なる故に下木下草も生ぜず、田畠に落入てアシシ」と書いて、松は下草や作物に害がある毒物を出す、これに対し雑木林では害作用が少なく下草が豊富である、幕府が勧める「雑木を切って赤松を植林する政策」は間違っており、雑木林にすべきである、と批判したため、『大学或問』は発禁となり、蕃山は牢屋で亡くなりました。
その後、『大学或問』は次第に価値が認められ、現代語訳が岩波書店から出ています。原典は国立国会図書館のデジタルサービスで読むことができます。
私は蕃山のこの記述を見つけて驚きました。オーストリアの植物学者モーリッシュが1937年に『アレロパシー』という本を書いて、アレロパシー(※)の概念を発表したのですが、蕃山の記述はその二百五十年前の1687年にアカマツのアレロパシーに気がついていたことを意味し感動しました。
熊澤蕃山は、その後名誉が回復され、現在の生態学の考えを先取りしていた独創的な学者だったと再評価されています。
※作物の根や葉から出る物質が他の生物に影響する現象。作用物質をアレロケミカルと呼ぶ 。
私の執筆したアレロパシーに関する本もほとんど売れず、絶版になっているものが多いのですが、熊澤蕃山のように、発禁になったり、批判され弾圧されたりしても、やがて名誉が回復されることもあるので、一縷の望みをもって、めげずにがんばりたいと考えています。
ふじい・よしはる 1955年兵庫県生まれ。博士(農学)。東京農工大学名誉教授。鯉渕学園農業栄養専門学校教授。2009年、植物のアレロパシー研究で文部科学大臣表彰科学技術賞受賞。『植物たちの静かな戦い』(化学同人)ほか著書多数。