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【連載】続・マタギの村から◎大滝ジュンコ――第45回/二風谷と山熊田

第45回 二風谷と山熊田 

 アイヌの村、北海道平取町二風谷[にぶたに]に赴いた。アイヌ文化に興味があり、私たちが織る「羽越しな布」と同じく、樹皮から布を織る「アットゥシ」作りが続いている地だったからだ。ここ山熊田で生きていくためのヒントもあるかもしれない。 

 フェリーから下船し車を運転していると、壮大な山林には白樺が多い植生の中でシナノキも生えていた。エゾシカが道脇で草を食む。「熊もいるかな」と見渡したけれど、山熊田に来る方々も同じことを言っていたな、と思い出す。 

 二風谷に着くと、私の思い描く「村」の印象とは異なり、国道沿いに「二風谷コタン」と洒落た看板があり、復元されたチセ(アイヌの住居)群や店舗も目に映る。 

 アイヌ文化の振興を担う「NEPKI」代表の山田桜子さんがガイドをしてくださった。儀式や言葉など独自の伝統様式が取り上げられがちだが、アイヌの意識の根底にある「神は崇める対象ではなく大切な隣人」という考え方が妙に腑に落ちる。 

 北海道は綿が育たない。木綿は貴重品だったが、萱野茂[かやの・しげる]二風谷アイヌ資料館には、山熊田界隈で見るものと同じ柄の木綿の絣が展示されていた。北前船などの廻船交易が盛んだった証だ。船に乗って来た私は、絣の追体験をしている気分になる。交易は木綿だけでなく、刃こぼれした日本刀や漆器などが物々交換された。特に漆器はアイヌにとって貴重で儀式でも重宝されたらしい。マキリ(小刀)やイタ(盆)などのアイヌ木彫り加飾技術と、新潟の村上にあった堆朱が交易によって文化的に交わり、江戸時代に村上木彫堆朱に影響した可能性もあるのでは、と勝手な推測が楽しい。 

交易で得た漆器は、儀式に重宝される特別なものだった(萱野茂二風谷アイヌ資料館蔵) 

 その後、アイヌ言語の研究者で、アイヌ文化の伝統継承と育成を行う「ウレシパ・プロジェクト」を立ち上げた、札幌大学の本田優子教授がアテンドしてくださった。彼女の熱を帯びた解説は、展示物に再び命を吹き込むようで、アイヌの「あらゆるものに魂がある」考え方と結びつく。 

 イオマンテ(熊送りの儀式)の展示の前で、山熊田ではナヤ汁(熊汁)に頭も入れると言うと、とても驚いていた。アイヌでは頭部は転生の儀式には必要不可欠で、魂の入れ物のような象徴として重要とされているからだ。見えない向こう側の世界をとても大切に考えている。 

 私がアイヌへの興味を強くしたのは、山熊田に住んでから。方言に紛れる独特な単語、その響きがアイヌ語っぽい。訪問してさらに興味深くなる。アイヌ語でシト=団子で、山熊田には団子粉を練るときにだけ使う「シトネル」という動詞がある。こちらで鮭を捕るヤナを「ウライ」と呼ぶが、アイヌ語そのまま。言葉以外にも縄袋を編む道具、鮭を撲殺する棒など、随所に現れる名残のような共通点がなんだか嬉しい。 

 翌日、二風谷でアットゥシを織る貝澤雪子さんと藤谷るみ子さんにお会いした。アットゥシだけで生計を立てている方はこのお二方だけだそう。貝澤さんの工房で、オヒョウの樹皮から作った糸を触らせていただく。すごく柔らかくて驚いた。シナノキよりも白く、糸も太くて密に織る。北海道の寒さゆえの必然なのだろう。同じ樹皮製でも表情や質感、用途が違っておもしろい。お話を伺っている最中、後継者であるお孫さんがやってきた。純粋に祖母を目指す彼女は、色鮮やかな草木染めのアットゥシのように軽やかでかっこいい。 

使い込まれた刀杼[とうひ]。よこ糸を打ち込む(押し込む)ために使う
貝澤さんが草木染めしたオヒョウの樹皮たち

 二風谷での伝統工芸の継承者育成事業は、どの分野も充実しているように見受けられた。しかし潤沢な補助金や公的サポートありきで、その後の定着はやはり難しい課題のようだ。精神や生活をひっくるめて初めて継承できるような独特な質は羽越しな布と同じで、技術だけ残せば無理がくる。雪子さんのお孫さんが後継する流れは、とても自然に思えた。 

 藤谷さんとは、私がしな布継承を決意する前にお会いし、相談に乗っていただいたとき以来の再会だった。従事する覚悟に至れない、とグズる私に、藤谷さんは「私は織る以外の道がなかった」と、悩む余地と選択できる幸せが私にあることを説いた。そして彼女のズシリと重く暗い過去を察したものだった。 

「あの頃はお嬢さんだったのにね」と私を見て笑う彼女は当時のままで、じっくり彼女の生い立ちをお話ししてくれた。昭和中期から観光地となった当初、朝から晩まで休まず織りまくり、土産物として売って生活を支えてきた。オヒョウだけでなくシナノキも織った。 

 帰り際、糸に割く前のオヒョウ樹皮を頂いたので、持参したシナノキのそれをお返しに渡そうとすると「嫌というほど知っているから」と断られ、確かに!と笑い合った。 

「生きていくこと」と同義のアットゥシを作る彼女たちは、海を越えた遠い山熊田にいても、私にとって大切な先輩たちだ。どちらにも明るい未来があるよう、ここにも居るだろう隣人へ願ってみる。 

大滝ジュンコ

おおたき・じゅんこ 1977年埼玉県生まれ。新潟県村上市山熊田のマタギを取り巻く文化に衝撃を受け、2015年に移住した。