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【BOOKS】ナ・ジョンホ著/米津篤八訳『ニューヨーク精神科医の人間図書館』◎松永裕衣子

その人たちは、まるで新しい本のようだった  

 現在イェール大学医学部に勤めるナ・ジョンホさんは2017年の夏、精神科の研修医としてニューヨークにいた。そこで出会った、さまざまなバックグラウンドをもつ個性的な患者たち。これは彼らとの忘れがたい思い出をまとめた、ナ医師のはじめての著作である。 

 本書によると、ニューヨーク大学の研修医が訓練を受けるベルビュー病院は、なんと患者の70%をホームレスの人たちが占めるという。ホームレスの精神疾患有病率はきわめて高く、ベルビュー病院の精神科患者は十中八九ホームレス、という記述にも驚かされるが、現在では難民申請者を含め13万人を超える人々が、市の提供するシェルターに暮らしているのは(※)、移民の街ニューヨークならではの事象といえる。 

※2024年9月時点、ニューヨーク・NPO団体調べ

 ハーレムの貧しい家庭に生まれ、長じてからは弁護士として大きな成功を収めながらも、重度の統合失調症を患い、家族、家、職場のすべてを失った黒人女性。深刻な自殺願望を抱く、わずか6歳の子ども。毎月のように精神科の救急外来を訪ねてくる常連患者の若者。みなナ医師にとっては自分とは違う世界に生きる、精神科の医師でなければ出会うことのない人々だった。 

 彼らとの出会いを、著者は「人間図書館」にたとえる。あまり耳慣れないこの言葉は、デンマークのNGO団体が2000年に使い始めたもので、障害をもつ人や社会的マイノリティなど生きた人間を本に見立て、読者と対話する活動を指す。 
〈本書は人間図書館の書庫の片隅の話である。私が精神科医の仕事で出会った患者一人ひとりが、私にとっては新しい「本」のようだった〉 
とナ医師は書いている。 その「本」のなかの物語は、時には感動的で、しばしば悲しく、涙が出るほど美しかった、と。 

〈私、研修医の先生がいいです〉と、ある女性患者が言う。忙しい専門医よりも、担当患者の少ない研修医のほうが、より長く話を聞いてくれるからだという。じっくり時間をかけて話に耳を傾け、日常を共有し、相手の置かれた状況や気持ちを理解する。統合失調症、双極性障害、境界性パーソナリティ障害、アルコール依存症……深刻な病と社会的偏見に苦しむ患者たちの治療を続けるうち、彼らと一般の人々との橋渡しをする存在が必要だとナ医師が考えるようになったのは、自然のなりゆきだった。 

 本書には、心に残る印象的な言葉がいくつも登場する。〈幸せだったことは一度もありません。思い出せないと言ったほうがいいかも……〉〈かれらにはわからないさ、それがどんな気分かなんて〉〈結局、“意志”の問題じゃないんですか?〉等々。 
 一つめは、子どものころに受けた虐待のトラウマに苦しむ青年の言葉、二つめは患者から人種差別的な言葉を投げつけられた著者自身の心の声、三つめは依存症の患者について、精神科志望の医大生が著者に向かってなにげなく放ったひとことだった。いずれも人と人との間に横たわる溝、深い分断を思い起こさせる。 

 精神疾患・精神科治療に対する根深い偏見・忌避意識と、精神科の患者などの社会的弱者やマイノリティに対する大衆の負の烙印(スティグマ)を緩和すること。そしてOECD諸国のうち最も高い、韓国の自殺率を下げること。ナ医師がそれらを自らの目標に定めたのは大切な友人を失ったことがきっかけだったと、本書の日本語版あとがきに記されている。他者の人生を完全に理解することはできない。けれど努力によって必ずその溝は埋められるのだという、人間への揺るぎない信頼が彼の活動を支えていることが、本書からもはっきりわかる。 

 2年前に母国・韓国で刊行された本書は口コミによりベストセラーとなり、今夏に刊行された第二作(直訳すると、「もし私がその時、私の言葉を聞いたなら」)も若い読者の共感を得て、瞬く間にベストセラーとなったという。自らの体験をつつみ隠さず、ありのままに語るナ医師の姿勢が、あたかも弱さが悪であるかのような社会のなかで、生きづらさを抱える人々に慰めを与えている。 

『ニューヨーク精神科医の人間図書館 

ナ・ジョンホ 著/米津篤八 訳 

柏書房 1980円(税込) 

ナ・ジョンホ〈나종호〉 

イェール大学医学部精神医学科教授。ソウル大学心理学科を卒業後、自殺予防に寄与する精神科医師を目指して、医学大学院に進学した。ソウル大学医学大学院を卒業後、ハーバード大学保健大学院で修士課程を修了。その後メイヨークリニックとニューヨーク大学で精神科研修医、イェール大学で依存症精神科専任医(フェロー)課程を終えた。自殺、依存症、トラウマ、悲嘆(グリーフ)に関する国際学術論文と教科書チャプター70編余りを執筆し、米国立精神保健院優秀研修医賞、イェール大学精神医学科研修医優秀研究賞、米国依存症精神医学協会ジョン・レナ賞、米国退役軍人省キャリア・デベロップメント・アワードなどを受賞した。OECD加盟国のなかで自殺率が1位なのに、抗うつ薬の処方率が最下位の韓国の精神疾患と治療に対するスティグマを緩和し、精神科受診のハードルを下げるため、文筆活動を続けている。 

松永裕衣子

まつなが・ゆいこ 1967年東京都生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。千代田区・文京区界隈の中小出版社で週刊美術雑誌、語学書、人文書等の編集部勤務を経て、 2013年より論創社編集長。