第71回 本の海に溺れる日本人、本棚をもたない遊牧民
モンゴルでは、毎年5月と9月にブックフェスティバルが開かれる。首都ウランバートルのスフバートル広場に出版関係者がブースを出し、書店より1割ほど安い値段で本を販売するのだ。日本にあるような取次会社がモンゴルにはなく、流通システムがシンプルなので、このようなイベントで割引販売しやすいのだと思う。
この日にあわせて新刊を出す出版社もあれば、海外から人気の著者を招いてトークショーを行う出版社も。本好きの老若男女にとってワクワクする3日間であることには間違いない。
ウランバートルにある大きめの書店の数は、私が知る限り10店舗くらいだと思う。書店激減が叫ばれている東京はといえば、1000店舗弱くらいだという。ウランバートルは人口約170万人、東京は約1400万人であることを考えても、圧倒的にモンゴルの方が少ない。
ちなみに私はこれまで遊牧民のゲルで本棚を見たことがない。季節ごとに移動する彼らは、最低限の荷物しかもたないというのも大きな理由だろう。ある遊牧民一家のゲルには、出身地のウブス県の英雄たちの顔写真と概要が収録された本が1冊あっただけ。別の一家のゲルには、家畜に関する実用書と小説が数冊置いてあるのみだった。
ことしの9月半ば、猛暑の日本から逃げるようにしてモンゴルへ来ていた私は、このブックフェスティバルを訪れた。こちらはすでにコートを羽織らないと耐えられないくらいの涼しさだ。
最初にのぞいたのは古本屋のブース。ノモンハン事件(モンゴルとロシアではハルハ河戦争と呼ばれる)の分厚い資料集やモンゴルのボクシング史など、個人的に興味をそそられる本が目に飛びこんでくる。なんだか宝探しのよう。
1000トゥグルグ均一コーナーでは段ボール箱に詰められた本が地面いっぱいに並び、にぎわっていた。円に換算すると45円くらいだから、日本の古本屋で見かける100円均一コーナーといった感じだろう。
広場の中央へ進むと、大きなテントにカラフルな本を並べる大手出版社のブースを発見。私を見て日本人だとすぐわかったらしく、売り手の女性が日本語で話しかけてきた。
「ここにあるのは海外の作品の翻訳本シリーズです。日本の作家も人気で、本好きの若者によく読まれていますよ。たとえば村上春樹とか夏目漱石とか」
彼女が指した本の表紙にはキリル文字でカズオイシグロとある。タイトルは、ふわふわ漂う宇宙の画家……? あっ、『浮世の画家』のことか。夏目漱石の本にはキリル文字でそのまま「ボッチャン」と書かれていた。翻訳の仕事は大変だ。タイトルだけでも、すごく頭を悩ませてしまいそうだから。
日本にいると、国内の作家が続々と本を出すので、そのすべてを読もうとしても追いつかない。ジャンルを問わなければ、日本では1日に200点の新刊が出ているらしい。私たちは本の海に溺れながら生きている。
モンゴルにも数多くの作家や詩人がいるけれど、そもそも人口の母数が350万人と少なく、新刊はゆったりしたペースでぽつぽつと出る。それもあってなのか、海外作品の翻訳本が人気だ。そういえばアート好きの若者たちが、夏目漱石の『吾輩は猫である』や『草枕』をモンゴル語で読み、面白かったと話していたのを思い出す。
うろうろしていると友人に遭遇し、「最近本を出した知り合いがあっちで出店しているから紹介するよ!」と連れて行ってくれた。私は書籍編集の仕事をしているので、書き手と直接知り合うとその人の本を買いたくなる。そうしているうちに背負っていたリュックがずっしり重くなった。
会場の広場は、結婚式最中の新郎新婦がよく訪れる場所でもある。この日も、ドレスとタキシードに身を包んだカップルと参列する親戚一同を見かけた。
私は5月のブックフェスティバルも訪れたのだが、そのときに比べて今回は新刊の数も出店する出版社も少ない気がする。出版関係者の友人にそのことを尋ねたら、彼女はこう言うのだった。
「モンゴルの冬は暗くて寒くて感傷的になりやすいから、文筆活動が進むんだよ。逆に夏はお酒を飲んだり草原に出かけたりして遊んじゃうから、ほとんど仕事にならないの。だから9月より5月の方が、このイベントは盛り上がるんだよね」
なるほど、と思った。
おおにし・かなこ フリーライター・編集者。広島生まれ、東京育ち。東京外国語大学モンゴル語科卒。日本では近所の国モンゴルの情報がほとんど得られないことに疑問を持ち、2012年からフリーランスになりモンゴル通いをスタート。現地の人びとと友人づきあいをしながら取材活動もおこなう。2023年9月に株式会社NOMADZを設立し、日本で見られるモンゴルの音楽イベントやモンゴル映画祭を現在企画中。