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【連載】文士たちのハイキング──添田知道の三味会を中心に◎堀内ぶりる 第五回/ありし日の相模野

第五回 ありし日の相模野

 詩人で作詞家の佐藤惣之助は、宮沢賢治の生前唯一の詩集『春と修羅』(関根書店)を、大正13(1924)年の刊行当初から評価していた数少ない一人だった。
『春と修羅』の一カ月後に上梓された佐藤の『蠅と蛍 或は寂寞の本』(新作社)には、「野外手帳─相模を歩き廻つて─」という詩が収められている。賢治が「イーハトーブ」こと、岩手の山野を歩きながら詩作したように、川崎出身の佐藤惣之助は近隣の相模野を歩き、同じように詩を書いた。  

○電線工夫は、野天の太陽を群がつた軽業師。 
○蜻蛉がしづかにシヤツの腕にとまると、そのまゝ海軍の徽章になる。

『蠅と蛍』「野外手帳」 

「南は琉球、台湾、北は北海道の果てまで歩いて来たが、相模ほどの国は見あたらない」と、『旅窓読本』(学芸社、昭和12年)の「相模国」で、その風光を絶賛した佐藤は、丹沢の麓の半原や七沢に逗留したほか、鶴間、長後、座間など、今日では住宅街になっている相模野の小さな町も訪れていた。 
 大正11(1922)年の10月には、鶴間に逗留し、仲秋の名月を待ちながら、同年の沖縄旅行の体験をもとにした『琉球諸島風物詩集』(京文社)を書き上げている。 

 その木深い秋の鶴間には、七日の月が満月になるまで居た。江戸からの大山街道で古い旅籠屋がある。(略)昼は地蜂に襲はれながら、零餘子[むかご]と松露をさがした。夜は村舎の月映[つきばえ]である。鎌倉ばやしに明笛[みんてき]、秋の浴衣がぞつと寒かつた。 

『山水大観』「相模野」 

 紀行文のアンソロジー、『山水大観』(新潮社、昭和4年)に収められた佐藤の「相模野」にある鶴間は、遠いどこかの小村を思わせる。 
 小田急江ノ島線が開業し、鶴間駅ができるのは昭和4(1929)年、ここでいう鶴間は駅から離れた大山街道の旧下鶴間宿。大正の頃はまだ宿場町の面影があり、古い旅籠屋が残っていたらしい。 

『旅窓読本』には、相模野の「高等町」という変わった名の場所を訪ねる紀行文がある。 
 ある春の日、友人二人と戸塚駅にいた佐藤は、長後の近くにあるという「高等町」の名に惹かれ、でかけてみることにする。 
 やはり小田急江ノ島線が開業する前で、神奈川の県央地域へ行くには戸塚〜厚木間を走るバスを利用した。三人は長後で下車すると、そこから徒歩で向かう。 

 バスの隣席にいた女学生風に、「高等町といつても町ではありませんよ。ほんの人家が少しばかりあるつまらない村ですわ」といわれたが、その通り、立派な学校はあるものの、家は7、8軒ほどしかない辺鄙な村だった。 
 そこは高座郡渋谷村大字福田字高等町。高等町は〝字名〟だった。現在の大和市福田、小田急江ノ島線の高座渋谷駅周辺にあたる。 

 三人は野中の一軒家、「金剛石[ダイヤモンド]料理店」と妙な名前の看板を掲げた店を見つけると、そこで一献。2階の座敷から薄く霞んだ丹沢連峰を望む。 
 店の女将さんに地名の由来を訊くと、県内で2番目の高等小学校、高等渋谷小学校(現在の大和市立渋谷小学校)が開校したときに、その校舎を建てた地元の大工が、自慢がてら、自分の村を「高等町」と呼んだのが広まったのだとか。 
「金剛石」の方は、村で初めてダイヤモンドの指輪を買った女将さんを、皆が「ダイヤモンド」と呼ぶようになったからとのこと。三人は高等町とダイヤの女将さんを祝して乾杯する。 

かつての字名「高等町」は、神社や保育園などの名称に残っている。写真は羽田の穴守稲荷を分祀した高等町穴守稲荷神社の幟 

 昭和10年代の半ば、添田知道も高等町を訪れている。おそらく、その頃執筆していた『小説 教育者』の取材も兼ねていたのだろう。 
『小説 教育者』は、添田の恩師で、貧困児童の教育に尽力した坂本龍之輔をモデルとした伝記小説。坂本は明治27(1894)年に、高等渋谷小学校の初代校長を務めた。 
『小説 教育者』の「第二部 村落校長記」(錦城出版社、昭和17年)には、「渋谷村は、藤沢往還を三里南に行くのである。歩いても歩いても、両側は桑の畑であつた」「原中にぽつんと高等小学の校舎は建てられてあつた」など、高等町とその周辺の描写がある。 
 このあたりの風景が宅地化によって大きく変わったのは戦後になってからだろう。 

 ところで、添田知道には「相模野漫策記」と題した紀行文がある。昭和7(1932)年の『地方経済』という雑誌の連載で、その一部は改稿され、月刊『ハイキング』(昭和8年2月号)にも掲載されている。
 添田が歩いたのは主に丹沢・大山方面。三味会[さんみかい]では初心者向けのハイキングコースが多かったが、ここでは低山登山の、より本格的なハイキングをしている。添田は月刊『山と渓谷』にも、「赤谷渓谷・三国界隈」「秩父の山小屋を歩く」といった紀行文を書いていた。 
「相模野漫策記」の第2回、「大山と七沢鉱泉」は、昭和2(1927)年の小田急小田原線開業を機に訪れたときのもの。新宿から小田急に乗り、伊勢原駅で下車すると、バスに乗り換えて大山へ向かう。 
 当時のバスの終点は今より麓の方にあったが、それでもその頃の車の性能ではきつい坂が続いた。  
 バスの乗客は気を利かし、降りて歩いたり、車体を後ろから押したりしたという。そんなことを4、5回繰り返して、ようやく終点の鳥居の下へ辿りついた。 
 大山にケーブルカーが開業するのは昭和6(1931)年、添田が訪れたのはそれより少し前だった。 

 健脚の添田は険しい男坂の石段を登りきると大山山頂へ。そこからさらに日向越[ひなたごえ]を経て七沢を目指す。 
 ハイキングブームの前夜で、現在は首都圏自然歩道(関東ふれあいの道)になっているこのコースも手入れがされていなかった。しかも、添田は着流しに下駄履きという軽装、近所の散歩にでかけるような格好だった。 

(略)木の根の露出した、ひどい路だ。やがて茅原へ出る。路はまつたく茅で蔽はれてゐる。素足を切られない為めに着物の裾を下ろし、全身で草を押し分けて進んだ。 

「相模野漫策記」 

 ようやく辿り着いた七沢の鉱泉宿で、疲れた足を湯の中に伸ばしていると、芸者を連れた男たちがドヤドヤとやってきた。案内された座敷も隣が騒がしく、不愉快になった添田はさっさと勘定を済ませるが、宿のお婆さんの仏様のような顔を見て感動、それまでの憤りがいちどきに消え去る。 
 当時の七沢は、伊勢原あたりから芸者を連れて遊びに来る客がいたとか。「相模野漫策記」では、より静かな鉱泉宿を求めて、七沢の奥の別所や、山北の、河内川の奥にある中川にもでかけている。 

「東京カラノハイキング案内」。昭和初期に小田急が発行したパンフレット。大山のケーブルカーが載っているので昭和6(1931)年以降のもの。旅行関係の広告を手がけたデザイナー、石井一郎によるモダンなイラストが目を引く 

堀内ぶりる

ほりうち・ぶりる 1961年横浜生まれ。ライター。昭和の鉄道が描かれた文学作品を渉猟している。写真は筆者が撮影した別府鉄道土山線(1984年1月)。