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【連載】文士たちのハイキング──添田知道の三味会を中心に◎堀内ぶりる 第六回(最終回)/近郊ローカル線めぐり

第六回(最終回) 近郊ローカル線めぐり

 月刊『旅』昭和14(1939)年4月号に掲載された、尾崎士郎の「ガソリンカー」という紀行文がある。東京近郊の非電化時代のローカル私鉄をめぐったもので、昭和初期の貴重な記録になっている。 
 ガソリンカーはディーゼルカーと同じ気動車。昔はガソリンエンジンで走る気動車が一般的だったため、この呼び名が広く使われていた。 

 ガソリンカーといふものは、何か春めいた乗物である。おそろしく尻の軽い、飄々たる感じが面白い。(略) 

 常磐線の馬橋から流山へ行く線がそれである。あの辺は一帯に土地が低く明るく、際限なくひろがるげんげ田で、何やら夢のやうに霞むまつたくの春の野である。その中へふらふらと迷ひ込んで行くやうなガソリンカーはたしかに現実ばなれのした羽化登仙的なものである。 

「ガソリンカー」  

 冒頭ではガソリンカーのことを「春めいた乗物」と表現している。これは4月号の掲載で〝お題〟が「陽春随筆」だったことから、無理にこじつけたようにもとれるが、ガソリンカーが「尻の軽い、飄々たる」というのは分かる感じがする。それまでの蒸気機関車と違う、軽快な気動車をうまく言い表している。 
 続いて紹介される流山鉄道(現在の流鉄)のガソリンカーは「羽化登仙的」と表現する。羽化登仙とは羽の生えた仙人となって天に昇ること。快い気分の喩えでもある。桃源郷のような田園風景の中を走るのが天にも昇る心地だったのだろうか。そんな流山鉄道の沿線も、今日ではすっかり住宅地に変わってしまった。 
 尾崎らは終点の流山駅に着くと、駅の案内板で見つけた、講談や歌舞伎で知られる義賊、金子市之丞と三千歳の墓に詣でる。この墓は今も流山根郷[ねごう]の閻魔堂の境内にある。 
 流山は「たゞ一軒のカフエーが白けてゐるばかり」のひっそりとした町だった。一行は「古着屋」という妙な屋号の酒屋で酒を瓶に詰めてもらうと、近くの江戸川べりにでて酒宴を開いた。 

 同じ頃、岩本素白も流山を訪れ、流山鉄道の車窓を記している。 

 馬橋と流山を繋ぐ鉄道の沿線は、まことに長閑なものであつた。然し何らの特色もない単なる田圃の連続で、平凡といへば実に平凡な所であるが、遠くの雑木山に続く真黒な松を背景に、所々に桜が白く咲いて居るし、線路の直ぐ傍の小さな農家には桃が盛りであつた。(略) 

「柴又と流山」  

 素白も同じように金子市之丞の墓に詣でると、江戸川にでた。川面には帆を張った舟がゆっくりと往く。聞こえてくるのは舟の水を切る音と、遠く幽かに聞こえる雲雀の鳴き声だけだった。 

流山市総合運動公園に保存されている流山鉄道のガソリンカー
閻魔堂境内にある金子市之丞と三千歳の墓

「ガソリンカー」の後半では、添田知道の三味会[さんみかい]に同行して乗ったという神中[じんちゅう]鉄道(現在の相鉄)が紹介される。戦後、沿線の宅地開発で急成長を遂げ、今や大手私鉄の一員となった相鉄も、神中鉄道と呼ばれていた戦前は草深いローカル線だった。 

(略)東相模の丘陵を走る此のガソリンカーは、まるで酔ひどれのやうに体をゆすぶつて、烈しい叫び声を立てるのである。それだけに面白いといへば面白いがかうして(横浜から)厚木まで、遥々揺すられて行くのは並大抵のことではなからう。  

「ガソリンカー」 

 三味会を「凡そヘンな風景や味覚ばかりを探つてゐるげて旅(※)の会」と評し、彼らに連れられて来なければ、神中鉄道のような「風変り」で「奇体」な鉄道など、乗ることはなかったろうと書いている。 
 それにしても「酔ひどれのやうに体をゆすぶつて、烈しい叫び声を立てる」ガソリンカーとは、いったいどんなものだったのだろう。 
『鉄道ピクトリアル』(1976年5月号)の長谷川弘和「相鉄・横浜駅の今昔」に、鉄道マニアの視点から見た当時の神中鉄道が記されているが、やはり同じような印象で、気動車はいつも調子が悪く、「車体をブルンブルンと振わせてゆっくり走る」と、故障のため途中駅で車両交換となり、蒸気機関車の牽くマッチ箱客車に乗り換えたという。 

※原文は「げて旅」に傍点

 神中鉄道の車窓の、「落ちつき古びた風色」を眺めているうちに、付近を歩いてみたくなった三味会の一行は、二俣川駅で下車すると、川の流れに沿った道を歩き、村役場の近くに見つけた雑貨屋の縁台で宴会を始める。といっても田舎の雑貨屋に肴になるようなものはなく、「紅しょうが」をつまみながら、水っぽい地酒を飲む。 
 二俣川駅の周辺も、最近は再開発でずいぶんと変わってしまったが、駅から少し離れた旧道には、わずかながら往時の面影が残っている。村役場があったあたりの川沿いには、昔ながらのたばこ屋が一軒、三味会が寄った、かつての雑貨屋かもしれない。 

「宏大な相模野の高原へ、一家を挙げて!!」。昭和11(1936)年頃の神中鉄道(現在の相鉄)のチラシ。
大和周辺の「芋ほり会」と、大山、中津渓谷の案内

 ところで、「ガソリンカー」の流山の章は、添田知道の『利根川随歩』(三学書房、昭和16年)にある「流山春昼」と文章がよく似ている。遺された執筆記録から、「ガソリンカー」は添田による代筆だった可能性が高い。 
 代筆の理由は分からないが、尾崎と添田は、ともに売文社に勤めていたことがある若い頃からの知己であり、同じ馬込文士村の住人でもあった。 
 戦後の昭和20年代から30年代にかけて、月刊『旅』に寄稿した尾崎士郎だが、戦前は「ガソリンカー」を除くと、一度、誌上座談会に出席したのみ。一方の添田知道は、昭和初期、度々、この雑誌に記事を書いていた。 
 また、添田は鉄道にも関心があったようで、紀行文のところどころに、それと分かることを書いている。

(略)新宿発の小田原行に乗り込む。多摩川の美しさ、青田、青田の続き。郊外電車発達の点で、もう大阪にばかり威張らして置くこともなくなつた。河内平野の俯瞰、生駒のトンネルこそ無けれ、小田急の乗り心地は決して「大軌」や「南海」に劣るものではない。   

「大山と七沢温泉」 

 大軌は大阪電気軌道の略で近鉄の前身。月刊『ハイキング』(昭和8年2月号)の、この「大山と七沢温泉」(「相模野漫策記」2の改稿)では、新たに開業した小田急の乗り心地を評価、関西の私鉄との比較は、ちょっとしたマニアを思わせる。 

堀内ぶりる

ほりうち・ぶりる 1961年横浜生まれ。ライター。昭和の鉄道が描かれた文学作品を渉猟している。写真は筆者が撮影した別府鉄道土山線[つちやません](1984年1月)。