第1回 変化の理由
若いころが人生でもっとも苦しいときであるということを、多くのひとは教えてくれなかった。それはわざわざ伝える必要もないくらいに当たり前のことだったからかもしれないし、あるいは、その逆に、多くのひとにとって十代、二十代が人生のもっとも華やかなころだったからかもしれない。
かくいうぼくも、つらい、つらい、と嘆きながら、青春時代を過ごしていたわけでもない。それなりにたのしかったこともあったし、胸をこがすような、好きなひととの思い出もあった。
でも、総じていえば、毎日が苦しかった。頭のなかがずっと、靄がかかっているような感じだった。
なにかをやらねば、とあせり、でも、目に見える結果を性急に求めるあまりに、結局なにも手につかず、家族に当たり散らかし、毎日泣きたい気持ちを抱えたまま、夜遅くまでひとりでブラウン管の前に座り込んでいた。
なぜ、そんなに苦しかったのか?
思いつくままに挙げてみる。
①自分には才能があると思っているが、だれも認めてくれない(本当の自分をだれもわかってくれない)。
②手っ取り早く、認めてもらうための手段を探しているが、全然見つからない(そんなものはどこにもない)。
③それなのに、刻一刻と時間が経っていく。そのことがつらい。
④そんな状態で、社会に出ていかなければならないことがつらい。
⑤自分のルックスがつらい。
このなかで、⑤だけは問題の種類が異なるように見えるが、ほんとうにそうだろうか?
自分の見た目のことで、すべてにたいしてやる気をなくすくらいに悩み、苦しむというのは、個人的な経験からいえば、20歳ごろがピークで、それからはすこしずつ気にならなくなっていく(ぼくの場合、おもに薄毛だ)。
もちろん、それは「すこしずつ」であって、いまでも、誰かが写した写真のなかに思いがけず自分を見つけたりすると、げんなりすることがあるし、みすぼらしいなあ、と思う。でも、若いころのように、それを数時間も、数日も引きずったりはしない。
成長。
あるいは、慣れ。
その理由を一言でまとめれば、そういうことになるのかもしれない。大人になるというのはつまりそういうことであり、それは、ありのままの自分を受け入れることなのである。
でも、違うな、とも思う。
48歳になったぼくはいまも、ありのままの自分を受け入れることを拒否しているところがあるし、気持ちをうまく切り替えられず、一日の予定を台無しにしてしまうこともある。
では、なにが変わったのだろうか?
それはおそらく、自分ではない。
それよりも、環境。
27歳になって、ぼくは初めて就職をしたのだ。
東京都町田市の「THE SUIT COMPANY」でスーツとネクタイを買い、朝から晩までパーテーションで囲まれたデスクに座り、電話をとり、パソコンのキーボードを打つ。
企業で働くということは、学生だったぼくが想像していたよりも難しくなく、それはどことなく、高校のころの部活動や、大学のときのゼミ活動に似ていた。
先輩たちから教えてもらったことを漏らさずメモし、わけもわからない会議に必死に参加し、電話の向こうの顧客からのクレームに耳を傾ける。
それらの行為は、言い換えれば、自分のことよりも、目の前の仕事のことや、顧客のこと、上司の機嫌について考えるということである。
くだらないな、と感じることもすくなくなかった。けれど、お客さんから感謝の言葉をもらったときはうれしかったし、上司から「成長したな」と認めてもらえたときもうれしかった。
でもなにより強調したいのは、毎日、自分のことを考えないで済むということのすばらしさだ。
もちろん、ぼくは自分の才能の有無や、ルックスについても考えている。でも、すくなくとも出勤しているあいだは、それらについて考える暇がなかった。
就職することで、27歳のぼくは明らかに、生きることが楽になった。
それが持続力のあるものかどうかは、さておいて。
しまだ・じゅんいちろう 1976年、高知県生まれ。東京育ち。日本大学商学部会計学科卒業。アルバイトや派遣社員をしながらヨーロッパとアフリカを旅する。小説家を目指していたが挫折。2009年9月、夏葉社起業。著書に『父と子の絆』(アルテスパブリッシング)、『長い読書』(みすず書房)などがある。