月刊『望星』は2024年11月から『web望星』として再スタートを切りました。

【連載】子どもたちと話したい読書のこと◎島田潤一郎 ——第7回/頭がよいということ

第7回 頭がよいということ

 世間一般でいう、「頭のよいひと」というのは、ある問いにたいして、適切に、かつ迅速にこたえられるひとのことをいうのではないか、と思う。そのような力が、小学校一年生からはじまるあらゆるテストにおいて測られているのは間違いないし、その能力は社会人になり、顧客からの要望にこたえたり、会議の資料をつくったり、大量のメールを返信したりするのに役にたつ。たぶん。 

 小学校の授業の風景を見ていると、すぐに、少数の聡明な子どもの存在に気づく。彼らは先生の質問にたいしてほぼ100%手を挙げ、解答を間違うということがない。 
 余計な一言もいわないし、先生の質問に疑義を呈するということもない。ニコニコとしていて、性格もいい。ぼくは大人になった彼らに会ってみたい、とこころの底から思う。 

 彼らの正反対にいるのは、「頭の悪い子」というよりも、自分の気持ちをうまくおさえられない子だ。 
 彼らは先生が問うていることよりもまず、自分が話したいことがある。目の前の授業なんかよりもずっと、気になることがある。 
 だから、「はい」と手を挙げて、先生に指名されても、どこか「心ここにあらず」だし、話しはじめると解答とは関係ないことまでつい話してしまう。 
 ぼくは彼らに親しみを感じる。 
 なぜなら、ぼくもむかし、彼らのような子どもだったからだ。 

 成績はいつも中よりすこし下であった。授業中はたいてい上の空で、かといって、早く授業が終わらないかなあ、と思っていたわけでもなかった。ぼくはいつも何かについて一所懸命考えていて、そうでなかったら、ノートの隅に漫画のキャラクターを描くか、あるいは、コンパスをクルクルと回転させて、机に穴をあけようとしていた。 

 当たり前だが、成績は悪かった。国語こそ「4」をとることはあったが、それ以外の成績はよくて「3」、「1」をとることもしばしばあった。 
 忘れられないのは、中学二年生の技術の期末テストで0点をとったときのことだ。それまでも、さまざまな教科でひどい点数をとってきたが、0点というのは生まれて初めてだった。 
 英語や日本史のように、知識がなければ解答できない、というタイプのテストではなかった。そこで出題されていたのは、生活の延長線上で考えていけばなんとなく解答にたどり着けるような問題ばかりで、だからこそ、とてもショックだった。 
 ぼくは答案用紙をすぐにかばんにしまい込み、友人たちとも口をきかなかった。 

 そのころは一軒家をそのまま塾舎にした、個人経営の塾にかよっていた。そこでもほとんど勉強をせず、先生がなにかを取りに行くために教室を出ると、ここぞとばかりに同級生たちとしゃべりまくった。 
 が、二年生の冬休みが終わり、三学期がはじまるころになると、さすがにこのままではまずいのではないか、と不安になってきた。 
 ぼくと同レベルの学力の同級生は、「勉強は昔からきらいだけど、運動は大好き」というタイプの元気な男の子か、ヤンキーぐらいしかいなかった。十四歳のぼくは、そのどちらのタイプでもなかった。 

 三学期の終わりのころ、母に、いまの塾でなくて、同じ中学校の子がだれもいない、もっとちゃんとした塾に行きたい、と切り出した。 
 母は驚いていたが、すぐにぼくの願いを聞き入れてくれ、三年生からは駅前の進学塾に通うようになった。 

 それからずいぶんと長いあいだ、ぼくはまじめに学校の勉強をした。それは中学三年生の一年間だけでなく、実に大学一年生まで続いたのであり、その五年間でぼくは、どのように勉強をすれば、手っ取り早くよい成績をとることができるかを学んだ。 
 そのコツとはすなわち、出題と解答のパターンを把握し、それを何度も復習することにほかならない。 
 すくなくとも、塾の先生たちがぼくに教えてくれたのはそういうことで、ぼくは彼らの教えを忠実に守ることで、短期間で成績をあげることができた。 

 そのころに覚えた英単語や、数式や、古文の文法や、日本史の年号や固有名詞、そのほとんどを、ぼくは忘れてしまった。 
 でも、さまざまな問いをいくつかのパターンに分類し、過不足なくこたえるという力は残るのであり、その力でもって、ひとびとは仕事をするのだと思う。 

島田潤一郎

しまだ・じゅんいちろう 1976年、高知県生まれ。東京育ち。日本大学商学部会計学科卒業。アルバイトや派遣社員をしながらヨーロッパとアフリカを旅する。小説家を目指していたが挫折。2009年9月、夏葉社起業。著書に『父と子の絆』(アルテスパブリッシング)、『長い読書』(みすず書房)などがある。