第1回 沈んだ氷──氷が浮かぶという奇跡
水──それは、私たちの毎日にあまりにも自然に存在しているもの。けれど、その正体は〝常識はずれ〟の物理化学的性質をいくつも持つ、不思議な存在だ。氷が水に浮く理由、凍るときに体積が増える仕組み……そんな現象のすべてが、まだ完全には解き明かされていない。
ここは、とある総合大学。集まっているのは、サステナビリティ研究会(通称サス研)に所属するちょっとクセのある4人の大学生。
・アルバイト三昧の経済学部生・湊[みなと]
・行動力抜群の国際学部生・千夏[ちなつ]
・アニメオタクの文学部生(中国からの留学生)・陳 詩音[チン・シオン]
・コンピューターが大好きな工学部生・湧[ゆう]
彼らの何気ない日常の会話や出来事が、やがて〝水〟の奥深い世界への扉を開いていく。さて、今回の物語では──どんな水の不思議が顔を出すのだろう?
沈んだ氷の謎
「あっつ……」
日差しは皮膚を刺すように鋭く、アスファルトは陽炎のように揺れていた。湊はキャンパスのロビーを通り抜け、学生ラウンジに入る。空調の風が静かに天井から降りてくる。
ソファ席に腰を下ろし、アイスコーヒーのふたを開ける。氷がぷかぷか浮いている。買ってから5分も経っていないのに、角がとれ、丸くなってしまった。コンビニからキャンパスまではわずか100メートル。その間の日差しで溶けたのか。
「やばいな、今日は……」
冷たい液体が喉を通るたび、体温が少し下がる気がした。氷は、水面で小さく音を立て、胸の奥に涼しい風を吹き込むようだった。
そのときラウンジの入口に人影が現れた。
湊はカップのふちを口につけたまま目を上げる。小ぶりのクーラーボックスを抱えた千夏が、いつものように軽やかな足取りで入ってきた。
目が合うと、彼女はふっと笑って少し手をあげた。湊もうなずき、テーブルの上にスペースをつくる。
「おつかれ、湊。これ見てよ」
千夏はクーラーボックスのふたを開け、冷気をまとったカップを差し出した。薄茶色の液体はコーヒー、でも、その底――湊は思わず眉をひそめた。
「……え? 沈んでる?」
「ほう、目ざといね」
千夏は自慢げにカップを軽く揺らす。氷はスプーンで押し込んだように動かず、沈黙を守っていた。
湊は思わず笑った。千夏のこういう姿を何度も見てきた。
「これって、屋上でラムネ噴射の実験をやったときみたいなやつ?」
「えっ、覚えてた?」
「忘れるわけないよ。あの時ちょうど、ゼミ室でレポート書いてたんだよ。そしたら、外で〝ドンッ!〟ってすごい音がしてさ」
湊は思い出して苦笑いする。
「何かと思ったら、窓ガラスにキャップが直撃して。教授がそれを見て〝最近の若者は戦争でも始めるつもりか〟って……」
「うわ、それ聞いてなかった。やばっ……」
千夏は笑いながら、ほんの少し肩をすぼめた。
「あと、ゼラチンで水風船を作って、ベランダから落としたこともあったよね。あれ、跳ね返ったの、地味に感動した」
「でしょ! あれ意外と成功だったと思う!」
無邪気にうなずく彼女の目が、何より楽しそうだった。
「これ、試作?」
湊の前に置かれたカップの中で、氷がゆっくり揺れている。
「フェス用?」
「そう、来月のグローバルサステナビリティフェス。サス研のブースで出すやつ」
「甘い氷?」
「そうすれば、最後まで味が薄まらないでしょ。飲みもの担当、私と湊だし」
湊は自分のカップと見比べる。表面にいくつか氷が浮いている。でも、千夏のカップはどうだ。
水はなぜ〝浮く〟のか
「いやさ、こうやって氷が浮いているのって、当たり前だと思っていたけど……沈んでいるのを見たら、なんか変な感じがするね」
「ふふ、比べてみると余計そう感じるでしょ」
千夏はストローをくるくると回しながら、氷の浮かぶカップを見つめた。
「水ってさ、温度が下がると縮むどころか、ちょっと広がるの。0℃近くになると、分子同士が距離をとって六角形のネットワークを作っちゃうんだよね」
「へえ、分子同士の仲が悪くなるのか?」
「逆に、仲良すぎてくっつかない。くっつきすぎず、適度な距離を取る関係ってやつ?」
「リアルだな……」
思わず湊は笑った。
「で、広がったぶんスカスカになって、密度が下がる。だから氷は水に浮くってわけ」
「そうか、体積が増えるってことか」
「そう。水って4℃のときがいちばんギュッとしていて、それより冷えると逆に膨らむんだよね」
湊はカップをかざして、ぷかぷかと浮かぶ氷を眺めた。
9パーセントの膨張が、世界を壊す
「そういえばさ、実家にいたとき、冬になると〝水道管が凍らないように水落としておけよ〟ってよく言われたんだよね。ヒーターもついているけど、電気代がもったいないからって、結局水を抜いてた」
「水道管って、凍ると中の水が膨らんで破裂するからね。体積がだいたい9パーも増えるんだって。だから、狭い管の中で凍ると、内側から〝ガンッ〟て押し広げちゃって、破裂することもある」
「9パーってけっこうでかいな。たったそれだけでも、金属の管を壊すってすごい……」
千夏はストローをかるくかじりながら、ふと思い出したように言った。
「そういえば、高校のとき、ペットボトルに水を入れて凍らせてたのよ。朝、冷凍庫開けた瞬間に〝パン!〟って音がして、フタが天井まで飛んでったんだよね」
「うわ、マジで?」
「うん、母親が『もうやめて!』って怒鳴っていたけど、私はテンション上がってた」
「いや、怒られるの当然すぎるって……」
「ちなみに、沈む氷の作り方、知りたい?」
「うん」
「簡単だよ。水100ミリリットルに砂糖30グラムくらいを溶かして、製氷皿に入れて凍らせる。そしたら、水より密度が高くなるから沈む。どう? 理科の教科書、1ページこれで埋めたいくらいでしょ」
湊はカップの中を見つめた。氷が、何事もなかったように浮かんでいる。
もしも氷が沈む世界だったら?
「なあ、千夏」
湊はカップの中をのぞき込みながら言った。
「もしさ、この氷が水に沈むやつだったら、世界ってどんなふうになってたんだろ」
「それ、けっこう深いよ」
千夏はちょっと笑って、窓の外をちらりと見た。蟬の声がかすかに聞こえる。
「たとえば湖とか池とか、冬になると下から凍ることになるよね。魚は逃げ場がなくなって、ほとんどが死ぬ。生態系がまるごと壊れる」
「やっぱそうか」
湊はうなずく。
「氷が浮くのって、あたりまえに見えて、実はめっちゃレアなんだな」
「うん、水くらいだよ、こんな動きするの。しかも、氷河期にも関係あるって知ってた?」
「え、氷河期? あれって、地球が寒くなって氷が増える時期だろ?」
「そう。で、氷って白いから、太陽光を反射するの。地球全体が氷に覆われると、太陽の熱をはね返しちゃって、もっと冷える」
「悪循環だな……」

「でも氷が水に浮くおかげで、海や湖の表面にだけ氷が張って、下は液体のまま残る。それが熱をたくわえて、急激な冷却を防いでくれる……。もし氷が沈む物質だったら、地球の気候はもっと極端になっていたかもね。氷が底にたまったら、海や湖の中に熱を保てなくなるでしょ?」
「うん。そうなったら、いったん氷河期に入ったら、戻るのが難しかったかもな」
「もしかしたら、今みたいに生きものが暮らせる環境にはなってなかったかも……っていう研究もあるよ」
湊は再び氷の浮かぶカップを見つめて、つぶやいた。
「水って……変なやつなのかもね」
「変なのに、ちゃんと地球の命を支えてる」
「なんか、ちょっと尊敬するわ」
「でしょ? それに最近、氷が溶けるの、早くなってるし。地球の氷は年々減ってるよ」
千夏の声は少しだけ真面目になった。湊は、自分のグラスの中の氷に目を落とす。グラスの中の氷は、確かに少しずつ、その姿を変えていた。
「氷が浮かぶ。ただそれだけのことで、地球は生きものの星になった」
湊は、そう言いながらカップをそっとテーブルに戻す。
「……じゃあ、沈んだ氷は?」
千夏が、いたずらっぽく笑った。
「沈むことで、味を守る氷、かな」
「こっちは地球を守る氷、こっちはコーヒーの味を守る氷だね」
2人の笑い声が、ひとときラウンジに広がる。
ふと、千夏が湊のカップをのぞき込む。
「ねえ、その氷、あとどれくらいもつと思う?」
「うーん、どうだろ。あと……1、2分かな?」
氷が浮かぶ。ただそれだけのことで、地球は生きものが暮らせる星になった。ぼくらは、きっと今日も、知らないうちに水に守られて生きている。
イラスト=ヒットペン

はしもと・じゅんじ 1967年、群馬県生まれ。学習院大学卒業。アクアスフィア・水研究所代表。武蔵野大学工学部サステナビリティ学科客員教授。水ジャーナリストとして、水と人というテーマで調査、情報発信を行う。Yahoo!ニュース個人「オーサーアワード2019」、東洋経済オンライン2021「ニューウェーブ賞」など受賞。主な著書に『水道民営化で水はどうなるのか』(岩波書店)、『水辺のワンダー~世界を旅して未来を考えた~』(文研出版)、『2040 水の未来予測』(産業編集センター)など。
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