講評
◎は佳作(作品掲載あり)、〇は選外佳作、それ以外は作品の投稿順に掲載しています。 今回は応募多数につき、二篇ご投稿いただいた方は一篇のみの講評(佳作は除く)となります。
 
◎「しあわせの三人」長澤沙也加
「しあわせの三人」とは何なのか。読み手によってそれぞれ解釈は異なると思うけれど、わたしは母の体に宿ったものの、生きてうまれることができなかったこどもたちの魂だと読んだ。ひらがなでつづった言葉は、子を失って泥のように混乱する母の重たい心と、こどもたちの無邪気な心、生命のうまれる場所としての「うみ」の質感をうまく表している。「もっと、もっと」という生々しいこどもの声や、自らの体を「袋」と感じる女の心情など非常に現実味があって、悲しみの感情が波打つ感触があった。
◎「純粋な時間」一関なつみ
描写は最小限に抑えられ、ラフスケッチのような印象を当初受けたが、最終連が鋭く、曇りガラスで見ていた情景が、急に透明になり、はっきりと見えるようになるといった面白い感覚を味わった。「タイパ」という言葉とはまるきり縁のなかった、私自身の学生時代をほのぼのと思い出し、空気のようにいつも傍にある「時間」が、昔と今でまったく変容していたことに気付かされた。素朴な作品だが映像的で、悲壮感はないのに、ある種の切実さを作品から感じる。
◎「大人になったら」一関なつみ
ほのぼのとした明るさが満ちつつも、言葉は鋭く、読み手の心を打つ力がある。一見、誰にでも書けそうで、書けない作品。いがらしみきおの漫画のような。イラストが対象物を的確にデフォルメして描くものであるように、この詩も、シーンの的確なデフォルメを感じる。別の詩誌に投稿することもあるかもしれないと思ったので、一応伝えておきたいのは、印刷時の設定を見直して、美しく字間を詰めた方がいい。詩集を編む時に、フォントにこだわったり、自ら字を組んだりする人もいるくらいで、詩は文字が少ない分、見た目にはそれなりにこだわった方がいい。
◎「Scrambled eggs」あらいれいか
九連目以降の、イメージが言葉をもどかしく追い越していくような勢いがとても心地良かった。一人称「ぼく」の序盤には青さ/幼さを、「わたし」となる後半には成熟を感じた。書き手が描くイメージが魅力的な分、一人称が変化した理由(様子)を直感的にわかるまでに書き込んだ方が、作品世界が立つかもしれない。
◎「西郷星」花山徳康
「……」の空隙に、語り手の表情を感じる。また、この詩を読む声にリズムを与える仕掛けにもなっている。無作為に言葉をつづっているような気配があるが、「髪」「針」「一本/指さして」など、細長く尖ったものを意図的に散りばめている。一方で、「おしぼり」や「埴輪」といった気の抜けたモチーフの配置も絶妙。
○「アカツキとミドリ」田中くるみ
改行のない散文詩は、まさに二人が疾走した「まっすぐのびた高速道路」を表しているかのようだった。衝突の瞬間を、あえて書き込まず、空行を置いて場面展開したのは、爽やかでうまい書き方。描きたい世界の輪郭が力強く伝わってくるので、これからどんな作品を書くのか楽しみだと感じた。
○「ドクダミ草を刈る人」いちのちかこ
声は戸惑いと悲しみに沈んでいるが、語り手が世界を見る眼は輝きに満ちている。ふつう、心が沈んでいれば、世界も沈んだように暗く描写されるものだが、このすれ違う描写が、不思議な妙を生んでいる。四連目「なんでこんな高そうなデザートを/注文したんだろう」という飾らない言葉に、感情移入する読み手は多いだろう。こうした声を、意識的に掬い取ることはなかなかできない。
○「理由」井上正行
冒頭の印象的な言葉が、小さな蜘蛛が雨粒を結ぶ情景へとつながり、やがて人間界にも張り巡らされたネットワークへと拡大していく書き方が見事。一読目では、二連目の「カラス」はすこし突飛で浮いて見えたが、再読した際にスマートフォンを叩く指先の比喩なのだとわかった。読み手の行き場をなくさせるような最後も良い。
◯「蚊」福富ぶぶ
結婚指輪をはめた「左手」で、自分の血を吸い取った蚊を潰して殺す。様々な読み方があると思うけれど、この蚊は夫の比喩であると私には思えた。自分のものだと、血を吸い尽くそうとする蚊を殺して、「転生」後もなお許さない。「誰も覗き込まない窓硝子」というモチーフも、人の妻となり、女としての自信を失っていく語り手の心情を表しているようで面白い。
○「鏡にうつす店内」かごう 湘
舞台は「店内」ではあるが、一般的な店ではなく、屋根のない、不気味な異変の起こる店を想像しながら読んだ。映画『8番出口』のような空気感。借り物ではない言葉、この書き手にしか書けないと思わせる切実さがあり、好感をもった。時系列が整然としているために、やや説明的な印象を受ける。短編映画を撮っているつもりで、描きたいシーンを整理し、それをうたうように書きくだしていけば、より洗練されるだろう。
○「眩しきものたち」三明十種
実生活から生まれた、光る雫のような作品。この詩の語り手は、私たちの傍らに立っているような空気感もあって、同輩のような親しみを感じる。「。」は落ちゆく「玉の水」を視覚的に描こうともしている。前半の連は詠嘆で、後半から語り手の思いが紡がれていく。最終連の前の連を最後に置いて、もとの最終連をどこかに組み入れた方が、読後に良い余韻が広がるのではないかと思った。
○「おおきな手、ちいさな手」村口宜史
呆然として思考が結ばなくなり、心象よりも、身近な景色の印象が強くなる、葬式の生々しい情景を描いている。言葉は少ないが、周りの雰囲気をうまく描いている。「ずいぶん老いた」の後に、語り手の手指の様子を的確に描写することで、語り手の心象を書き込むことができるのではないかとも思った。
○「雲の城」雪代明希
書き手自身の中に海があって、その波に乗って、言葉が生まれ出てきたかのような勢いが作品に満ちている。水の青、灯の赤、雪の白、雲の灰色、いくつもの色をキャンバスに出して、最後「街」に全ての色が混ざり合っていくような情景を見た。「ふわふわ」というオノマトペ、「かも」など、「雲の城」を演出するために、わざと空気を緩めている仕掛けがある。
○「水垢離」関根健人
言葉が継がれ、重なり、レオナール・フジタが描く女の肌の色あいを感じたのが不思議だった。陶器色とでも言おうか。「太古」という言葉から、先史時代、平安、鎌倉、やがて令和時代へと、それぞれの時代の女たちが飛び出してくるように感じた。映画『千年女優』を思い出した。「君」は、そのまま二人称の意味にも、『源氏物語』に登場する人たちの名をも彷彿とさせ、これはこの書き手からしみだしてきた独特の色合いのようにも感じた。
○「関係/ある傾斜」アリサカ・ユキ
教会は日本にも数多くあるけれど、この書き手の「教会」「神」「水車」という言葉からは、西洋のにおいを感じる。一方で、「反復横跳び」という日本の体育教育を感じさせる言葉のリフレインがアクセントとなって飽きさせない。書き手と語り手が一体となって、心象風景を劇的に表現している。
○「ヒア」早乙女ボブ
個人の物語ではなく、もっと大きな、人の物語を語ろうとしている。個人から離れて、人や世界という大きなものを語ろうとすると、抽象的になったり、概念的になったりしがちだが、この書き手の作品にはジオラマ作りのような繊細な手つきがあって、上からじっくりと細部まで眺めたくなる魅力がある。
○「軸神様」緒方水花里
「軸」について、語り手は饒舌に言葉を尽くしていく。軸のまわりを回りながら、言葉を次から次へと捧げていく祭りのようだ。読了後、この語り手が本当に言いたかったことは何だったのか、そうした空芯の印象が余韻として残る。榎本櫻湖の詩に通ずるところがあるような気がした。
○「診察室の詩人たち」白木ニナ
「仁」「詩人」「薬師」という言葉に、古風な趣がある。現代に生きる人としては異質なまでの、書き手としての覚悟が、この言葉に古風な響きを与えているのかもしれない。そうした独特さが、独特な景色にもつながっている。言葉が茂みのように鬱蒼としている。あえてその茂みの葉を落とそうとしたなら、その間隙から、どのような風景がみえるのか気になった。
○「オレンジ色の柔らかい味」あられ工場
「トラウトサーモンのハラス」の切り身から、「白い小さな龍」の体つきを生々しく思い出すという展開が面白い。六連目から七連目の、幻想が現実味を帯びていく瞬間に迫力がある。小泉八雲の『雪女』のラストを彷彿とさせる終わり方だとも感じた。最後はうまく着地しすぎた感じを受けるので、「川」の音や、描写で終えた方が、良い余韻がのこるのではないかとも考えた。
○「セレンディピティ」藍原センシ
「雨[な]く」「心像」といった言葉遊びが面白い。あえて甘い言葉を捨てて、「適所」や「労う」といった言葉を置く感性に、この書き手の個性を感じた。心象風景が、現実世界の景色を侵食するような気配がある。情景描写をあと一連でも書き加えれば、より独自の世界観が立ち現れる。
「ハブ(蛇)」多賀嶋
種田山頭火の自由律俳句を彷彿とさせる。タイトルも、詩の一部になっている。タイトルのインパクトが強い分、蛇の方のハブをまず思い浮かべるが、どちらかといえば、USBハブや、ハブ空港といった接続の意味の「ハブ」がメインテーマであると感じた。自分の尾を口で咥える蛇の図を連想した。
「バナナの皮」吉岡幸一
腐り、干からびていく「バナナの皮」と、少女の髪で揺れている「花柄のリボン」がリンクする。「バナナの皮」は、単なる生ごみではなく、死後に肉体が蹂躙される生物の象徴である。母親の「汚いわね」という女言葉はどことなく古風で、「本当だ」「絶対に触らないで」といった今の女が使う言葉を入れた方が、登場人物に人らしいにおいがたつのではないかと感じた。
「来訪」木村 文
星新一のショートショートを思わせる。行わけ詩だが、空いた行間に「私」と「友人」の目配せや息遣いが聞こえてくるようだった。温かな友情をつづった詩であるようにも読めるが、一方で、友人が「私」を殺すのを楽しみにしているかのような不気味さも最後まである。結末は誰にもわからない。その不安が余韻として残る。
「コスモス」三好由美子
「コスモスの種みたいな/小っちゃなこの島」は、日本列島を連想させる。美しい花は、咲いているだけで笑っているように見える。女も花も「切り捨て」られる存在だという悲しみと問いが提示される。「島」「宇宙船」といった魅力的な言葉が数多く登場する分、情景描写がほしくなる。情景描写を意識すれば、作品世界にもより奥行きがでるだろう。
「忘却の旅立ち」う%(「%」は右に90度回転)
人と、私たちが生きているこの世界の温もりを感じる。「君」に忘れ去られることは悲しいけれど、だからこそ「君」が幸せであることがわかるという発見を、誠実な言葉で読み手に伝えようとする熱意を感じる。最後は、花吹雪の舞う情景をイメージさせる。
「気持ちのわるい日」フェイまち
冒頭の「口のぬめり」の描写が、この詩で切り取られたシーンの前の状況を、あやしく伝えている。豪勢な食事をした脂がとれないのかもしれないし、または、人との不快な接触があったのかもしれない。整然とした印象のある詩だが、あえて最後に「鳴り叫く[なりひびく]」と置いて破調させる試みが面白い。
「峠の青」まつりぺきん
森の奥に「海」の化石があるという情景は妖しくも美しく、「カメラマン氏」とともに恍惚の時間を味わった。「雨水を弾いている」道路や、「弱い光」を放つ青い「岩肌」といった描写が良い分、「カメラマン氏」の発言など、シーンを緩ませる言葉がもったいないように感じた。笑いはこの書き手の持ち味だが、きっと大真面目なものを書いても、どことなく可笑しな空気は残ると思う。
「三分間の砂々」三波 並
『月の砂漠』を思わせる広々とした情景から、砂時計の中に入っていくような展開が独特で面白い。書き手が見ている景色は悲しいけれど、とても美しい。この語り手をとり囲んでいる景色の描写がもっとほしくなる。心象描写がうまい。同じくらい情景描写に力をいれれば、より唯一無二の世界を構築できる。
「観覧車」道下 宥
最終連から、埋み火のように消えない大人の恋を感じる。「傍らにいた人」は、いまは家族でこの手品の興行を観に来ているのかもしれない。種も仕掛けもある、黒い「布」を闇に放り投げるシーンは鮮やか。四連目「散っていく」は、「消えていく」にした方が、「布」が「傍らにいた人」の比喩にもなっていることが直感的にわかるのではないかと感じた。
講評を終えて
自分にしか書けないものと誠実に向き合うことが、詩を生み出す一歩だと思う。上手じゃなくていい。誰にも伝わらなくてもいい。自分だけが書けるものを書くのだという姿勢でいれば、詩は楽しい。助言めいたことを書いたけれど、これは単にわたしの美意識から発したもので、書き手の美意識より優先すべきものではない。「これ、どう?」という気軽な気持ちでの投稿を、この場所で引き続きお待ちしております。(マーサ)

1990年埼玉県生まれ。詩人。第五十四回現代詩手帖賞受賞。『狸の匣』(思潮社)で第二十三回中原中也賞、『雨をよぶ灯台』(思潮社)で第二十八回萩原朔太郎賞受賞。

 
			 
			 
			 
			 
			 
			 
			