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【ジャーナル】消えるムラを撮り続けたい◎澤宮優――第4話(最終回)/成田空港第三滑走路で消える集落と二人のカメラマン

成田空港(正式には成田国際空港)の拡張工事が進むなか、移転によって消滅する集落がある。インバウンド需要増大という光の陰で、長年暮らしてきた土地から離れざるえない人たち。二人のカメラマンが、消えゆく集落を、そして住民たちの複雑な思いを記録にとどめようとしている。国策によってふたたび揺れる成田を、澤宮優さんがルポする。   

最後の奉納相撲 

 菱田や中郷地区の人々に共通する思い出が、8月24日に鹿島神社で行われる奉納相撲である。五穀豊穣と無病息災を祈念して四百年前頃に始まったと言われる。 
 奉納相撲の前日に地域の若者たちが集まって、境内にあるブルーシートに被せられた、盛り上がった円形の土を固めて土俵にする。藁を結んで頑丈な縄を作り、土俵の周りに置く。これが俵になる。土俵に上がる階段状の踏み俵も用意され、中央に小さな土を盛り、白い紙が飾られる。奉納相撲の当日は午前十時前に若者が太鼓を叩き、開始を告げる。 

 二歳、三歳の子どもを土俵に上げて「しょっきり」を行い、小さな子どもたち、小学生、中学生、大人と年代的に順を追って取り組みが行われる。勝ち抜き戦もあり、勝者には景品が与えられる。 
 七十代の人たちは口を揃えて奉納相撲の思い出話をする。 
「僕らが子どもの頃は相撲大会は神社に一杯人が来たんです。多古町などよその地域からも力自慢が来てね。近くの中谷津の少年院からも子どもたちが招待されて、真っ裸にまわしをつけて土俵に上がっていました」 

 1955年頃、奉納相撲がもっとも賑わっていたときに「ナンノクソ」と呼ばれる名物行司がいた。相撲好きの小柄な老人で、どこに住んでいたのか分からないが、奉納相撲になると綻びた袴を履いて土俵に上がる。取り組みの最中、一方が負けそうになると「ナンノクソ、ナンノクソ」と声を張り上げるので渾名がついた。 

 奉納相撲も、1971年に国側が住民の土地を強制収容(第一次代執行)したときには、反対闘争で住民が疲れ果て行われなかった。この年、反対派の若者が自死し、また村の若者が海で事故死した。村では、奉納相撲をやらなかったからバチが当たったのだと噂になり、以後反対闘争が続く中でも奉納相撲は盛大に行われた。 

 2024年も8月24日に恒例の奉納相撲が開催された。この行事も2025年を最後になくなる。 
 午前、神社が高い木々に覆われてもいるので、いくぶん涼しい。今回は芝山町長や、付近の圏央道工事を担う大林組の社員たちの姿もあり、多くの人が集まった。空港関係の社員も続々と相撲に参加する。ムラをなくす側、なくされる側の双方が、この日のいい思い出を残すために、力を合わせて盛り上げようという願いが伝わった。 

地域総出で賑わう奉納相撲。この行事もなくなる

 境内には、相撲を観戦する多くの住民の姿があった。小さな子どもを連れた家族、高齢者の姿もある。この日のためによその地域から戻って来た出身者もいた。 
 相撲が始まると序盤から一同の視線は土俵に注がれ、土俵上では、子どもたちや青年たちと手に汗握る攻防が休みなく続く。そのたびに拍手や歓声で盛り上がる。「負けるな」「頑張れ」「よくやった」という声が入り乱れ、その声は次第に大きくなった。 

確かな記録を将来に残す

 カメラマンの中島は土俵の近くに三脚を立てて、いい光景を撮るために熱戦を撮影し続けていた。ふだんは温厚な彼の目が、土俵に惹きつけられるように鋭く輝いている。素早くカメラを動かし、土俵上の動きを追いかける。前回の撮影では、コロナ禍のため奉納相撲は行われなかったので、中島にとって今回は思い入れの深い日であった。 

 奉納相撲は、最後の一番が終わった後に、皆から「来年も頑張ろう」とかけ声があがり、好評のうちに終了した。やがて集落は秋を迎え、稲の刈り入れや、お彼岸、氏神祭りと今までと変わりなく日常が続いていく。年が明ければ「オビシャ」と、いつもの行事が待っている。まだ集落の生活は確固として続いているのである。 

 中島は奉納相撲を撮り終えた後に、話してくれた。 
「あそこの集落は特別なところではないですね。神社があって寺があって、農作業があって、何もかもがふつうです。この、どこにでもあるような景色が大事なんです。消えてゆく村の一つとして、身近にこういうことがあったという姿を記憶することは、日本の消えゆく村に共通する普遍的な問題を浮き彫りにすると思います。この撮影は私にとって大きな使命を持つ仕事になりました」 
 もちろん中島も集落がなくなる日まで撮影を続け、確かな記録として残すつもりだ。 

 今も多古町一鍬田で撮影を続けるカメラマンの齊藤小弥太も、集落がなくなるまで撮影を続けるが、最後は写真集にして撮影でお世話になった人たちに渡したいと考える。 
「集落が消滅する中で、そこにいる人々のささいな思い、そこに生きた人々の素朴な思いを残すことはとても有意義なことです。同時に高齢化も進み、後継者もいないという現実は近い将来どこにでも起こりえることです。これらの普遍的な象徴として一鍬田集落を見た人にひとつの集落での出来事ではなく、日本全体の集落の課題として捉えて欲しいという気持ちがすごくあります」 

 第三滑走路建設の工事も加速度的に進み、この地に行くたびに景観が変わっている。田畑は荒れ地になり、墓地からは墓が消え、その反対に滑走路の工事で赤土が露わになり、その規模も想像以上に広がっている。ムラが消えることが現実味を帯びている。 

家も次々に移転し、空き地も増えた
林も無残に削られた

移転の、その日まで

 秋のある日、筆者は稲穂の茂った田圃で、トラクターで淡々と作業を続ける農家の女性に出会った。田圃も少なくなり、農作業をする人も見かけなくなった中で、無言で作業を続ける彼女の背中から、「 たとえ明日、世界が終わるとしても、今日私はリンゴの木を植える」という神学者マルティン・ルターの言葉が筆者に甦った。 

移転するそのときまで農業を続ける人もいる。
その背中からこの土地で生きた矜持を感じさせられた

 それは明日への希望を信じる強さでもあり、最後の最後まで自分の生活スタイルを崩さない意志の強さを見せられた場面であった。この集落の人たちは、移転してからも力強く生きてゆくに違いないと確信した。 

 筆者も第三滑走路建設については反対ではない。観光立国として日本経済を向上させるためには、海外からの受け皿の確保は必要なことである。 
 しかし一方で、利便性の恩恵を求め、また経済を重視するため、これまでの仕組みを変えようとするとき、その陰でそれまでの生活が遮断されてしまう人々の痛みをつねに忘れずにいたい。押しやられる人々を労り、人々の生活史に対する畏敬の念を持つ。それは自ずと利便性への懐疑に繋がってゆく。その視点が今もっとも求められているのではないだろうか。 

 齊藤小弥太、中島誠二、二人のカメラマンの根底にはそのような熾火[おきび]のような熱が宿り続けている。これから激変する集落を彼らはどのような思いでファインダーから眺め、カメラに収めるのだろうか。ムラがなくなるその日まで撮影し続ける二人の作品に対峙し、耳を澄ませ、そこから聞こえる住民の声を心に受け止めたい。 

(了)

タイトル写真=齊藤小弥太「土地の記憶」より

澤宮 優

さわみや・ゆう 1964年熊本県八代市生まれ。青山学院大学文学部史学科、早稲田大学第二文学部日本文学専修卒業。戦前の巨人の名捕手吉原正喜の生涯を描いた『巨人軍最強の捕手』(晶文社、2003年)で、第14回ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。主な著書に『戦国廃城紀行 敗者の城を探る』(河出文庫)、『昭和十八年 幻の箱根駅伝 ゴールは靖国、そして戦地へ』(集英社文庫)、『イラストで見る昭和の消えた仕事図鑑』(角川ソフィア文庫)、『イップス 魔病を乗り越えたアスリートたち』(角川新書)など。 最新作に故郷と沖縄との縁を描いた『あなたの隣にある沖縄』(集英社文庫)がある。