【タイトル画像】1952(昭和27)年3月29日、警官隊により共産党員らが逮捕された、「山村工作隊」のアジトと見られる小屋(東京・小河内村=現・奥多摩町)写真提供=共同通信イメージズ
日本共産党が武力革命を目指す「武装闘争路線」をとったのは、1951(昭和26)年から53年にかけての実質約二年間。その後、55(昭和30)年7月の六全協(第六回全国協議会)において、誤った「極左冒険主義」だったとして、この路線は正式に否定された。
山村工作隊の活動は、都市部における「中核自衛隊」の活動、デモなどでの火炎瓶闘争、散発的な交番襲撃などとともに武装闘争の一翼を担ったが、そもそもなぜ、当時の共産党はそのような過激路線をとったのか。そこには国際情勢の激変と党を二分する勢力争いという二つの要因が絡み合っていた。
平和革命論から武装闘争へ
そもそもの発端は、1950年1月6日、コミンフォルム機関紙(※)に載った『日本の情勢について』という論文。日本共産党で政治局員の野坂参三らが唱えていた「平和革命論」(占領下の日本で、選挙を通じての革命成功もあり得るという立場)を強く否定した。
戦前・戦中は非合法組織として治安維持法などで弾圧されてきた共産党であったが、1945年にGHQによる占領が始まると、獄中にいた徳田球一、志賀義雄、宮本顕治らの党幹部が次々釈放され、党の存在も合法化された。共産党の側も当初は米軍を「解放軍」と位置づけていた。
戦後、46年と47年の総選挙では、徳田や野坂など五人もしくは四人の当選者に留まったが、49年の総選挙では一気に三十五議席を獲得する大躍進を見せた。
※コミンフォルムは1947年、旧ソ連と欧州九ヵ国の共産党が結成した国際共産主義の連絡協力機関
一方GHQとの関係は、1947年の「2・1ゼネスト」がマッカーサーの指令により中止に追い込まれて急速に悪化、米ソ冷戦の様相が濃くなると、GHQはあからさまに共産党を敵視するようになった。
「平和革命などあり得ない」とするコミンフォルム論文は、このような状況下、ソ連の指導部から日本の共産党員に〝投下〟されたものだった。
野坂ら党主流派の幹部は一週間後の1月13日、「『日本の情勢について』に関する所感」という論考を『アカハタ(現・赤旗)』に発表、コミンフォルムによる批判は日本の「人民大衆の受入れ難いものである」と反論した。
すると17日付の中国共産党『人民日報』は、「日本人民解放の道」という「所感」への批判論文でさらなる追い打ちをかける。このとき開催中だった拡大中央委員会はこの問題で紛糾し、党指導部は「所感」を撤回、『アカハタ』には野坂の自己批判文が載ることになった。ソ連及び中国からの外圧に屈する形だった。
その後の党内の混乱は、部外者には極めて分かりにくい。徳田や野坂らの指導部は、コミンフォルムへの反論は撤回したものの「所感派」と呼ばれて党の主流であり続け、反対派を徹底して排除した。宮本らコミンフォルム論文を支持した勢力は「国際派」という少数派となって主要ポストから追われた。
ところがこの国際派が最終的に1955年、所感派から主導権を奪い取り、武装闘争の路線を「過ち」と切り捨てる。
この立場から書かれた共産党の正史『日本共産党の七十年』によれば、徳田や野坂ら所感派はコミンフォルム論文後の50年4月、宮本らを排除して党中央委員会を事実上解体、6月6日に「マッカーサーの弾圧」(※)を受けると、秘かに中国に脱出し、中国共産党の庇護下で「北京機関」を設立した。そして「中国流の武装闘争方針を(日本)国内にもちこみ、五一年二月には、党規約違反の『四全協』なるものをひらき、『軍事方針』を採用した」と説明されている。
平和革命を掲げていた「所感派」が非合法化の危機に直面し、今度はソ連・中国共産党の庇護のもと、武装闘争に舵を切ったというのである。
とにかくはっきりわかるのは、武装闘争の発案がソ連や中国の外圧で生まれたこと、その過程で共産党は二派に分裂したことだ。
※GHQが共産党中央委員24人全員を公職追放し、翌日には赤旗編集委員など17人を追放した
土本典昭の回想
この複雑怪奇な党上層部の争いと国際情勢との関係は、一線でさまざまな地下活動を命じられる末端の若い党員には、到底理解しきれないものだった。
たとえば、水俣のドキュメンタリーなどで知られる映像作家・土本典昭は早稲田大学の学生党員として、旧小河内村の山村工作隊などに関わった当時の回想を「コミンフォルム・ショック」と題してまとめている(『朝日ジャーナル』1970年3月20日号、土本著『映画は生きものの仕事である』所収)。
私はこの稿をおこす前に多くの旧友に会ったが、だれもその時期の全体像をつかんでいなかった。それは彼らが当時、それぞれ狭い視野しか与えられず、上級下級の縦の構造で活動させられていたからである。私は、私の体験を語る以外にない。(略)私には最も暗黒の部分であり、未解決のまま強制冷凍処理をしてきた部分なのである。

東大にあった全学連中執はその下部組織・都学連とともに「国際派」の牙城になっていたが、共産党の指導部は、メンバーの多くを「所感派」に入れ替えた。全学連書記局にいた早大生の土本も立場を失ったが、是が非でも復党を望んだ彼は、所感派の新幹部に〝面従腹背〟する形で、早稲田学内の各種闘争に身を投じた。
新路線の学生運動はかつてとは様変わりし、「暗く、いつも緊張していた」という。
(末端の共産党で)一番権力をもっていたのは「人事防衛委員」で、たえず思想点検し、「党派性」、非合法活動のイロハをしゃべっていた。(略)同時に「中核自衛隊」が組織され始めていた。忠実で大胆で、体力のある優秀な党員は(略)自治会の立候補もとりやめて「軍事」に専念していた。(略)当時、新綱領の実践として、小河内山村工作隊が基礎調査活動(五一年十一月ごろ)から半定着活動に移っていたが、三月には森林盗伐、政令違反、公務執行妨害罪で(現地の工作隊員らが)第一次弾圧を受けた。「小河内へ」という字が、(その当時は)かならずビラに大書されていた。
学内の闘争で少しずつ「細胞キャップ」の信頼を得た土本は、「血のメーデー事件」のあと、学内に潜入した公安警察官を捕まえて抗議集会などを開き、非党員の立場のまま6月下旬、いよいよ小河内行きを命じられた。

私は親から勘当あつかいをうけ、それでもいまだ見知らぬ小河内に好奇心をもって出かけた。同じく元分派(元国際派)の同志と、同じく元分派の軍事委員、そして若手の美術家党員グループとともに、小河内村の根拠地にたどりついた(略)。
当時小河内では、三多摩の軍事基地(米軍立川基地など)へ水と電力を補給する多目的ダムの建設がおこなわれており、村長木村源兵衛(正しくは小河内の隣村・氷川村=現奥多摩村=の村長だった木村源兵衛)は、都下屈指の山村地主、製材業者で、安井(誠一郎)都政への資金提供者として、一帯を支配していた。この根を断ち切ること、彼を打倒すること、山村を解放し、ダム建設を阻止することこそ、自民党売国内閣(厳密には保守合同により自民党が生まれるのはこの三年後。当時は自由党の第三次吉田茂内閣)を打倒し、アメリカ帝国主義の占領に反対することだという論理が語られていた。(略)その拠点「八畳岩」は見事な大岩で、その下に一五人ゴロ寝の余地はあった。渓流で洗面し、大鍋で麦九、米一の割合で炊いた雑炊を食べ、タバコは日に三本支給された。
しかし、土本らが接触した村人は、半年以上の工作にもかかわらず極めて冷淡で、胸襟を開こうとはしなかったと彼もまた感じている。
それでもお盆が近づいて、ダム建設労働者の集団交渉の情報が、飯場に潜り込んだ工作員から伝わった。手取り日当を250円から300円へ。それ以外に500円のお盆手当を──。工作隊はこの交渉に合わせ、ダムの可燃物に火を放つなどの破壊工作を決めた。土本ともうひとりのメンバーが反対したが、押し切られた。
だが一同は未然に逮捕されてしまった。
早稲田からの小河内潜入はその後も細々と続いたが、活動は先細り、やがて六全協が開催され、誤った「極左冒険主義」として打ち切られた。土本には「公然たる点検と総括」さえなされない不満が湧き起り、「党指導部はそのことを六全協(による党の統合)とひきかえにドブに捨てた」と感じられた。
「過ち」のひと言で切り捨てられた闘争。
それはよろこびでも悲しみでもなく、ショックでさえあり得なかった。(革命につながる)「ボルシェビキ」「党」(という言葉)は私の中でさらに希求の対象となる一方、現実の「党」がどうなろうと、もはや驚き狂うことはなくなっていた。

(つづく)

みやま・たかし 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。朝日新聞学芸部、同社会部記者を経てフリーに。2000年から06年にかけ、ペルーを拠点として南米諸国のルポルタージュ記事を各誌に発表。帰国後、ルポやドキュメントの取材・執筆で活躍している。著書に『日本から一番遠いニッポン――南米同胞百年目の消息』(東海教育研究所)、『さまよえる町――フクシマ曝心地の「心の声」を追って』(東海教育研究所)『ホームレス歌人のいた冬』(東海教育研究所、のち文春文庫)、『夢を喰らう――キネマの怪人・古海卓二』(筑摩書房)、『国権と島と涙――沖縄の抗う民意を探る』(朝日新聞出版)、『一寸のペンの虫――〝ブンヤ崩れ〟の見たメディア危機』(東海教育研究所)などがある。
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