【ジャーナル】戦後史探検──昭和20年代を歩く 第53回◎三山喬 山村工作隊の記憶(1)

【タイトル画像】1952(昭和27)年3月29日、警官隊により共産党員らが逮捕された、「山村工作隊」のアジトと見られる小屋(東京・小河内村=現・奥多摩町)写真提供=共同通信イメージズ 

 JR青梅線の終点・奥多摩駅から多摩川沿いの青梅街道を縫うように登って約6.3キロ。左手にダムの堰堤と、その先に深緑色の湖面が見えてくる。奥多摩湖の通称で知られる東京都水道局の小河内[おごうち]貯水池。1957(昭和32)年に誕生した人造湖だ。 
 2月末の週末、曲がりくねった山道をツーリングのバイクが次々走り抜け、ダム事務所や都の広報施設、食堂などがある一角で、休憩するライダーや家族連れの観光客などが湖畔の風に身を委ねていた。

湖底に沈んだ旧小河内村をしのぶ石碑のある奥多摩湖畔 

 遠く湖の奥まで見渡しても視界に人家はほとんどなく、切り立った山林に囲まれた静寂が広がっている。前年からの少雨のため、このときの貯水率は30%台。普段なら水面下に沈んでいる色違いの土肌が、帯状に湖岸に顔を出していた。 
 かつてこの場所には、渓流沿いに小集落が点々と続いていた。ダム建設で水没したのは、旧小河内村(1955年に奥多摩町と合併)にあった大半の集落と、県境を越えた先の山梨県丹波山村、小菅村にあった一部集落で、移転を余儀なくされた住民は計945世帯。このうち二割ほどは高台に居を移し村内に留まったが、それ以外は故郷を去り各地に四散した。 

渇水で水位が下がった奥多摩湖。中央の台座のような部分は通常は水面下に隠れている

渡邉恒雄記者のスクープ

 2024年暮れ、白寿を目前に九十八歳で大往生した読売グループ代表「ナベツネ」こと渡邉恒雄は、昭和から平成にかけ、巨大新聞社のワンマン経営者として君臨する傍ら、政界のフィクサー的存在としても影響力を持った言論界のドンであった。権力闘争に天賦の才を持ち、たたき上げの政治部記者から論説委員長、主筆へと上り詰めるなか、剛腕を振るってリベラルな記者を排除、革新寄りだった紙面を保守路線に一変させた。ただ意外にも新聞記者になる以前、東大文学部哲学科の学生だった時代には、日本共産党の東大細胞でリーダー格だった経歴も持つ。 
 党員としてはしかし、ほどなく党方針への疑問を公言するようになり除名処分を受ける。マルクス主義とはこのとき決別した。 
 読売入社後は『読売ウイークリー』(当時の『週刊読売』)編集部に配属され、入社して二年の1952(昭和27)年春、新聞本体の記者ではなかったが社会面トップのスクープをものにする。そのニュースの舞台となったのが、水没の近づく旧小河内村だった。 

「山村工作隊のアジトに乗込む 本社渡辺記者 小河内村湯場部落へ」 
「天險誇る〝千早城〟若者十七名と一問一答」 
「山、山に新たな拠点『革命達成』といきまく」 

 4月3日付の朝刊には、そんな大見出しが躍った。 
 千早城とは南北朝時代、楠木正成が守った山城で、難攻不落の代名詞だ。山村工作隊は1950年代前半、日本共産党が一時的にとっていた「武装闘争路線」のもと、農山村に革命の拠点を築こうとする地下組織だった(武装闘争路線は1955年、党の第六回全国協議会=六全協=で「極左冒険主義」による誤りであったと否定され放棄された)。 
 若き日のナベツネは、小河内村に築かれていたこの工作隊のアジトを探り当て、潜入ルポを書いたのだ。記事はこんな書き出しで始まっている。 

日共(日本共産党)は昨年(51年)二月の四全協(第四回全国協議会)で「山岳パルチザン」(パルチザンは仏語でゲリラ的な非正規軍の意)の軍事方針を決定した。その後十月の五全協でこれを修正して山村工作に重点をおくよりも大衆を獲得する〝大衆路線〟に立てと指令したが山村の工作はいぜん継続されており、その最初の手入れが去月(52年3月)廿九日の都下小河内山村解放工作隊(西多摩郡小河内村原部落女の湯飯場)の急襲であった。ところが(略)山奥にまだ残存部隊の密集拠点があるとの情報を得て記者は一日朝小河内村河内部落まで乗込んだ。

 集落の交番で聞き込みをしていると、飛び込んで来た少年が「十三人が(山を登って)行った」と目撃情報を告げ、交番の巡査が「それが工作隊ですよ」と太鼓判を押した。渡邉はぬかるんだ急勾配の山腹をよじ登り、足跡を辿って小さな山小屋を発見する。近寄るとたちまち若者らに取り囲まれ、小屋の中に座らされた。 
「何しに来た。どこのものだ」 
 ひとしきり尋問調で誰何されたあと、多少は質問に応じてもいいと思ったのか、若者らは「武器はいくらでもある」「ここにいれば十人で百人、いや千人までやっつけられる」などと戦闘能力を誇り、付近の山中にはあちこちに似た拠点が築かれているのだと語った。 

 ──君たちは暴力革命が成功すると思っているのか。 
「するさ、その暁にはお前など本当は絞首刑だと言いたいが、お前など殺してもしようがない」と二時間ほど経って渡邉は解放された。 
 渡邉は2005年、七十九歳のときの自伝『わが人生記』で、この単独アジト取材について「若気というか血気というか無茶な取材であった」と振り返っている。それでもこの仕事の直後に政治部に異動となり、本人は当時の政治部長からこの潜入記がきっかけで政治部に引き上げたと告げられたという。

 一方、このとき渡邉に対応した山村工作隊のリーダーは、のちに作家となる高史明[コ・サミョン]という在日朝鮮人二世で、1970年代に『歎異抄』にまつわる著作で世に知られる。『わが人生記』によれば、『青春無明』という高の作品でそのことを知った渡邉は「本当に驚いた」と記している。 
 それを読んで当時の詳細をより鮮明に思い出したらしく、「殺っちまうんだ」「殺すだと!」「奴を逃がしたら、今度やられるのは、こっちの番だぞ」「殺しは、許さん!」、そんな生々しい眼前のやりとりを引用したうえで、「私は殺される寸前だったが、殺人に抵抗した高史明氏の〝良心〟のおかげで、命を救われた」と漏らしている。 

 高はその後、『闇を喰む』という自伝的小説で、前後の状況も詳しく書いている。山口県下関市で石炭仲仕の子に生まれた高は、両親を早くに失って上京、「ニコヨン」(日当240円に由来する日雇い労働者の俗称)となってその日暮らしを続けるなか、共産党に入党、新宿職安広場で連日繰り広げられる「アブレ闘争」(失業手当などをめぐる闘争)で警官隊との肉弾戦に明け暮れ、投獄される経験も何回かした。 
 そんな中、たまたま地区委員会の命で出席した五全協の会議で、党の方針の大転換、武装闘争路線に舵を切る場面に居合わせて、地下組織の一員に任ぜられる。そして1952年早春、山村工作隊の一員として、六人の青年党員に一週間の山村体験をさせるため、彼らを引率し小河内村に向かうことになった。 

 小説では「S駅」となっているが、新宿駅のことだ。そのホームで始発列車に乗ろうと待ち合わせをしていると、地下組織の仲間が走ってきて「緊急連絡」が告げられた。今まさに向かおうとする小河内村のアジトがこの朝、警官隊に急襲され、現地にいる全員が逮捕されたという。 
 それでも一行は現地行きを強行し、急峻な崖の谷間にあるバラック小屋のアジトに到着した。もちろんもぬけの殻だった。高らは新たな拠点づくりに動こうとしたが、携行する握り飯を準備中、警官隊が来てしまった。それでも連行される途中、一瞬のスキを突き急斜面を駆け上がり、警官隊を撒くことに成功した。 
 こうして野宿の末、辿り着いたのが、別の尾根にある木こり小屋だった。この場所こそ翌々日、渡邉恒雄が〝発見〟する新アジトだった。 

 下から登ってくる渡邉の姿を高たちは早くから見つけていた。その背後には渡邉を尾行する男たちもいた。こうして渡邉を挟撃するように工作隊の新旧二部隊は合流した。 
 高はしかしこれに先立って村人らと接触し、その予想もしなかった冷淡さに衝撃を受けていた。 
 党から聞いていた話では、極貧の村民のほとんどは党の味方のはずだった。例えば職安広場のアブレ闘争では、周囲にいる労働者の多くが仲間だった。高の逮捕を防ごうと、トラックの前に身を投げ出す人さえいた。ところが小河内の村民はまったく口をきいてくれなかったのだ。 
「(彼らは我々を)恐れていた。恐れていただけではない、反感を抱いていた。中には敵意を剝き出しにする者もいた」 

(略)中央の方針と、この山の現実の食い違いはなぜなのか。さらに私が聞いた報告と、村人たちの態度の違いはなぜ起きているのか。村人たちは、警察を恐れているのか。私は一人考えた。結論はでなかった。 

(『闇を喰む』) 

 ジャーナリストの魚住昭は2000年に刊行した『渡邉恒雄 メディアと権力』の取材のため、六十代後半だった高を東京都小平市の自宅に訪ねている。高は渡邉との出会いのあと、当時の対応をめぐって厳しく批判を受けていた。青年対策責任者の任も解かれ、高は1955年、六全協を前に共産党を離れた。その述懐を聞いた魚住は、こうまとめた。 

 奥多摩での出来事以来、高の心には軍事方針への疑問が芽生えていた。軍事方針とはつまるところ「敵は殺せ」ということだ。それは共産主義の理想とは異質なものではないか……。奥多摩でオルグしようとした村人たちから冷たくあしらわれたことも高の疑念に拍車をかけた。

(つづく) 

三山 喬

みやま・たかし 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。朝日新聞学芸部、同社会部記者を経てフリーに。2000年から06年にかけ、ペルーを拠点として南米諸国のルポルタージュ記事を各誌に発表。帰国後、ルポやドキュメントの取材・執筆で活躍している。著書に『日本から一番遠いニッポン――南米同胞百年目の消息』(東海教育研究所)、『さまよえる町――フクシマ曝心地の「心の声」を追って』(東海教育研究所)『ホームレス歌人のいた冬』(東海教育研究所、のち文春文庫)、『夢を喰らう――キネマの怪人・古海卓二』(筑摩書房)、『国権と島と涙――沖縄の抗う民意を探る』(朝日新聞出版)、『一寸のペンの虫――〝ブンヤ崩れ〟の見たメディア危機』(東海教育研究所)などがある。

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